第八話
和樹の補習が終了した、にもかかわらず和樹は今日も今日とて茹だるような暑さの中を学園の付属図書館に向かっている。もちろん直行からの課題をこなすためだ。補習が終わる否や、直行は追加の課題を出してきたのだ、それも大量に。和樹は鍛えてくれと言った手前、直行に文句を言うわけにもいかずただ嘆息するだけだった。
さらにイリスはイリスでルナとの模擬戦に忙しく、和樹の相手をしてる暇がなかった。それはすなわち、和樹の気晴らしの相手がいないと言うことでもあった。膨大な書籍と文献の山に埋もれていると、和樹は時たま気が狂いそうになる。そんなときはイリスと気晴らしにチャットするのだ。その気晴らしすら出来ない現在の状況に、和樹はまたため息を吐くしかなかった。
いつものように学園に入り、いつものように付属図書館に向かい、いつものように視聴覚ブースに向かおうとして、いつもと違うことが起こった。いつも軽く挨拶する図書館司書の女性が談笑していたのだ、同級生の茜と。
それに驚いてきびすを返すと和樹に気付いたのだろう。司書の女性はいらっしゃいと友好的に言ってくる、それも笑顔のおまけつきで。和樹はそんな好意を無碍にすることが出来なかった。
しかたなく、本当にしかたなく司書の女性に今日もよろしくと挨拶すると、隣にいた茜が二人とも知り合いなのかと問うてきた。その問いに例の子だよと司書の女性は茜に返す。つぎに出でてきた茜の声は、ある意味和樹の予想通りだった。
「なんだ、やっぱりあんたが図書館の虫だったんだ」
その一種失礼な物言いに、司書の女性が軽く茜を諌めると、妹がごめんなさいと謝ってきた。そのことに茜とこの女性が姉妹であることを思い出す。ある意味、どうでもいい情報だから和樹は今の今までその事を忘れていた。存外に和樹も失礼な人間である。
いつものように和樹は視聴覚ブースの一角を大量の書籍と文献で占領する。ただその隣の席に茜が座っていることを除けばだが。茜はその大量の文書の山を見てなんとも言えないうめき声を上げていた。
その事を無視して、和樹はいやに高度になってきた直行の課題をこなしていく。和樹は問題を一瞥しただけでよどみなく解答欄を埋めていく。そのいっそ鮮やかとも言える手並みに茜は思わず感嘆の声を漏らした。そのことに和樹はほんの少し得意な気持ちになり、その手の速度をさらに上げていく。歓声が上がった、それに和樹は図書館では静かにと茜に注意する。
注意された茜は口を右手で押さえ、罰が悪そうに辺りを見回し席に再び座る。調子にのった和樹にもその責任の一端がある、課題から目を離し周辺を見渡す。奇跡的にも辺りには誰もいなかった。そのことに和樹は胸を撫で下ろし、再び課題に集中する。
「あんた、本当は頭よかったんだ」
そんなどこか抑えた声が視聴覚ブースの一角に響く。和樹はその勘違いした言に違うとだけ返し、課題を解く手を止めない。沈黙が場を支配した。茜には自分には全く分からない問題を解く和樹のことを邪魔したくは無いとの思いがあったし、和樹は課題を解くのに精一杯で会話する余裕が無かった。故に沈黙が降りるのは必然だった。
男女二人しかいない図書館の一角、間違いが起こってもおかしくない場面だ。しかしてそんな間違いは起こらない。一方は一心不乱に課題を解いていたのだし、もう一方は補習の時間が目前に迫っていたからだ。
「私、補習の時間だから行くね」
そう言って茜は席を立つ。その行動に和樹はああとだけ言って了承の意思を伝える。和樹一人になり、何しに来たのだろうと考える。答えは出なかった。そのことに人が人の考えを全て理解できることなど決して無いのだと当たり前の解に達し、それでもいいかと考えなおす。誰もが他人の考え全てを理解できる世界など和樹には恐怖でしかなかったからだ。
和樹が自身の考えに背を震わせていた頃、自動販売機事件対策班――通称担当班では最後の追い込みに入っていた。その目の下には隈が相変わらず彩られ、激務であることをうかがわせた。
そんな担当班の中で最も若い玲奈は、相変わらず鬼気迫る職場だなと場違いな感想を抱いていた。玲奈は幸いにも勤務表の中に組み込まれていない。簡単に説明すると誰か倒れたとき用の補充要員の役を仰せつかっていた。故に定時に出勤し、定時に退勤出来るのだ。
とは言ってもこんな職場で、そんな蛮勇を犯す勇気は玲奈には無かった。事実、定時に帰ろうとすると恨みがましい視線が降ってくるのだ。そのためいつでも交代出来るようにと半分泊り込みのような状態にあった。これでも自宅に帰れるだけましなのだ。担当班の中には一ヶ月自宅に帰っていない者もいるぐらいだ。
しかしてその努力のお陰か件の匿名通報者は数十人まで絞り込まれていた。その中で一人だけ毛色の違う人間がいた。その人間は学生で高度な電脳戦など行えない人間のはずだった。今までの常識では初期に白だと判断される人間だ。だがそれを確認した真澄はこの学生も対象に入れたままにしろと命令した。
最初は困惑した担当班の人間も数十人に絞り込んだ中に、その名前が未だに残っていることに認識を改めていた。こうなると匿名通報の声紋分析の結果も信憑性が出てくる。一週間前に送られてきた結果は十代後半から二十代前半の男性。絞り込んだ中でその条件に当てはまるのは、その学生一人だった。
「ほぼ、決まりだな」
班長である譲二のその一言に担当班の面々が歓声を上げる。それを譲二はひと睨みで治めると、まだほぼだと言っているだろうと担当班の人間を一喝する。
「確定するぞ」
その譲二の一言に心身ともに限界に近づいていた担当班の面々は、誰もが悲喜交々の悲鳴を上げたがそれが仕事だと諦め、自身の役割をこなしていく。その只中で譲二は芹葉和樹と書かれた報告書を見つめていた。
件の匿名通報者が和樹だと判明した頃、和樹は相変わらず直行からの課題に精を出していた。その手は未だ淀みなく解答欄を埋めていっている。イリスから時間だと連絡が来る頃には今日の分の課題は全て終えていた。和樹はおもむろに帰宅する準備を始める。
日は傾きその朱色の姿を空一面に広げ、図書館前の街路樹は赤い光に照らされ長い影を形作っていた。その影が和樹が図書館から出てくると、長い動かない影と短いこちらに向かって来る影に別れた。長い影が街路樹であるのは言わずもながだが、はたして短い影は補習組の一人、要だった。
「よ、お疲れ」
要は片手を上げながら一樹に軽く挨拶を交わす。もう補習が終わってずいぶん時間がたっているはずだ。そのことを考えると和樹はなぜこんなところにいるのかと言う疑問しか返せなかった。
その和樹の言に要は苦笑した、相変わらず和樹は友人の機微が分からないなと。驚いたのは和樹だった、友人とはどういうことだその思いが脳内を駆け巡る。友人とはそう簡単になれるものではないはずだ、少なくとも和樹の認識ではそうなっている。その事を要に説明すると、呵呵大笑された。
「そりゃ親友って言うんだ」
友達ってのはもっと簡単なものだぜ。喋って、冗談言い合ってそれぐらいで十分だ。そう要は言う。第一、俺は馬鹿だからな、それくらいの事しか出来ん。腰に手を当て胸を張って言い切った。
「胸を張って言う様な事じゃないだろう」
そんな要の物言いに和樹は思わず肩を落としながら突っ込んでしまった。その和樹の行動に要はにやりとどこか人を食ったような笑みを浮かべると、そうそれが友人だと鬼の首を取ったかの様な顔で宣言した。そんな要の言に一樹は二の句がつげなかった。
図書館から学園正門までは歩いて十分ほどの距離がある。和樹は要と連れ立って歩きながら、これからどうしようかと考えていた。なにぶん友人と付き合い無い暦十六年だ、なにか気の利いたこともいえるわけでもなし、和樹はその時間をもてあましていた。
そんなこんなで和樹が沈黙していると、それに堪えかねたのだろうか要が疑問を投げかけてきた。いわく、何で図書館通いなんてしてるんだと。それに和樹はどう答えようかと悩む。
出来れば自身が電脳症であることは隠しておきたい、しかして詳しく説明すればその事を話さなければならなくなる。事ここに至り和樹は直行に全ての責任を押し付けることにした。説明することから逃げたともいえる。
「黒田先生からの課題だよ」
「げ、直行からかよ」
近現代史の補習はレポートだけだった、こう言うと簡単に聞こえるが実態は違った。担当があの直行なのである。事実、その近現代史における電脳の影響と題されたレポートはあまりの主題の広大さと、四百字詰原稿用紙三十枚以上という制限から受けたくない補習の第一位に燦然と輝いていた。
しかもどこかの本を丸写しにしたようなレポートは、ちゃんと添削されて返ってくるのだ。再提出との大きな赤文字と共に。直行は全てのレポートにちゃんと目を通しているらしい。そのかわり、ちゃんと資料を集め自ら文言を考えられたレポートはどんな稚拙なものであっても合格印が押されて返ってくる。
そのことに思い至ったのだろう、図書館通いになるのも当然だと要は勝手に納得し、同情の視線を送ってくる。ちなみに和樹は近現代史の試験は赤点を取っていないのだが、相手が勘違いするのは勝手だ。そう判断し、相手の勘違いを和樹はあえて否定しなかった。
そうこうしているうちに、正門についた。和樹はここで別れようとじゃあと言って、片手を挙げる。しかしてそうは問屋がおろさなかった。要がおいおい待てよと和樹を引き止めたからだ。要が言うには、このままさよならはちと寂しいとのことだった。
「どこか寄っていこうぜ」
その要の提案に和樹は直ぐに返事を返せなかった。和樹は要と違って帰りの電車の時間がある、しかし三十分程度は余裕があるのも事実だ。どうしようかと悩んでいると要が、友人になった記念になともう一度誘ってきた。それに断るのも悪いかと、和樹は分かったと同意する。要の目が輝き、よっしゃじゃあゲーセンいこうぜと和樹の先に立って歩き出した。
和樹が要に連れてこられたのは、駅前にある巨大と言う形容詞かしっくりとくる遊戯施設だった。その中に要は勝手知ったるなんとやら、ずんずんと無遠慮に入っていく。少なくとも和樹にはそう見えた。実際には誰もが要と同じようにしていたのだが、初めての経験に緊張していた和樹には周りを見る余裕がなかった。
「こっちだこっち」
入り口でぼうっとしている和樹に気付いたのだろう。要は大きく左手を振りながらよく通るその声で和樹を呼んでいた。瞬間、周りの視線が和樹に集中する。それに和樹は一瞬怯むと、それらの視線を振り切るように急ぎ足で要の元へ向かっていった。
「やっと来たか」
要は目の前の筐体を指差して、これが面白いんだと呆れるくらい嬉しそうな声音を飛ばした。それに和樹はその筐体を注意深く観察していた。はたして要が指差した筐体は卵形であった。その細くなった部分からはコードがいくつも伸び、十二台の同じ筐体の中央に鎮座している巨大なモニタに接続されている。それらの筐体は中央のモニタを囲み、まるで花びらの様に配置されていた。
全感覚投入型対戦格闘ゲーム、ライツヴェフィ。簡単に言えば電脳戦を簡単にかつ安全に行えるようにしたゲームである。論理防壁は体力ゲージになり、論理攻撃は必殺技にあたる。開発したのは日本が誇る電脳研究の最高峰、電脳研こと擬似神経網研究所。ここまでそろって話題にならないはずがない。その威容はゲームに疎い和樹ですら知っているものだった。
一戦やろうぜ、そう言って要は和樹の了承も取らずに、空いている筐体に入っていった。その行動に和樹は唖然とした。こいつはこうも強引なやつであったのかとだ。このまま放っておこうかと和樹は考えるが、そうして後で文句を言われるのも勘弁したい。ここはその言に従っておこうと和樹は、空いている対になったもう一つの筐体に入っていく。
筐体の中はベットの様なものだった。その体を包み込むかのような心地よさに、和樹はちょっとだけ眠りそうになり、頭を振って眠気を追い出す。同時に眼前に戦闘開始の文字が躍った。視界一面に広がる無機質な格子が描かれた大地、和樹にはとても見慣れた風景だった。
反応が遅い、それが和樹の嘘偽りない感想だった。どんな行動をとってもどうしてもいつもより一拍遅れるのだ。そのせいもあり和樹は要に防戦一方で押さえ込まれていた。和樹はそのことに僅かに焦り舌打ちする。反対に要の方はとても楽しそうだった。この界隈で要相手にこれほどまで戦える相手はいなくなっていたからだ。
要はこのゲームの全国ランカーだった。暇さえあればこのゲームで遊んでいたら、いつの間にかなってしまっていた。その要の技量をモニタを見ていた観衆も知っていたのだろう、その攻撃をことごとく防ぐ和樹はいったい何者だと思っていた。
しかしてその均衡も破られることになる。一瞬の隙を突いて放たれた要の大技が和樹に決まったのだ。そしてそのまま制限時間が経過する。体力ゲージの差で和樹は負けてしまった。だが意気消沈して筐体を出てきた和樹にかけられたのは、賞賛の拍手だった。
もっとやろうぜとの要のどこか興奮した様子に、おっかなびっくり時間が無いからと断って和樹は家路についていた。いつもの駅で降りるとやおらイリスがチャットをしてきた。そのことに和樹はイリスから話しかけてくるのは珍しいなと返す。
それに対してのイリスの言は、マスターが楽しそうでしたからとのわけの分からないものだった。むしろ疲れたよとイリスに伝える。よくあんな場所で楽しめるものだ、和樹は人ごみがあまり好きではなかった。
好きではなかったがあのゲーム、ライツヴェフィは面白かったと和樹はイリスに語る。少々反応が遅いことを除けば、電脳戦に限りなく近かったからだ。命がかかっていない事もその感情に拍車をかけていた。あれを開発した人間は間違いなく天才だろう。そう和樹は思っていた。
イリスはそんな和樹のどこか熱の篭った話を、黙って聞いていた。ただその顔は嬉しそうに緩んでいたが。イリスは世間に対しどこか冷めた目をしている和樹のことを、ある意味心配していた。しかしその心配は的外れだったらしい、そうイリスは判断するとどこか胸の奥が暖かくなった。
その普段とは異なる感情の動きにイリスは戸惑っていた。どこか電脳が故障したのかと、電脳全体に走査をかけるが結果は異常なし、むしろ好調といった方がいい。ここに至りイリスはこの感情の出所を探ることを諦めた。
少なくとも悪いことではないだろう、そう結論付けると、イリスは未だ熱く件のゲームについて語っている和樹に集中を戻す。その和樹の姿は、いつものどこか達観した姿ではなく年相応の少年のものだった。
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