第三話
――以上のことから、日本で最初の電脳症が報告されたのは必然だったと考えられる。もう誰も担任の話を聞いてはいない、にもかかわらず今日も今日とて直行の考察癖は無駄に全力全開であった。授業の終了のチャイムが学び舎に響く。それに反応して直行は直ぐに話を止めた。やっぱり基本的には優秀なんだなと、改めて直行に評価を下す。
朝からいくつの授業を受けたのだろうか、和樹は気もそぞろでよく覚えていなかった。目の前でイリスがふわりふわりと浮かんでいるのだ、授業に集中できるはずもない。基本的にイリスは五感に干渉していることを好む。どうやら内に引きこもっているのは性に合わないらしい。
管制人格にそんな感情があるのかと和樹は疑問に思ったが。イリスは独立した思考をもつ知性体だ、そんなこともあるのだろうと和樹は考え直す。視界の中を行ったり来たりされる和樹のほうはたまったものではないが。
昨日のことは深く考えないことにした。どれだけ心配しても、結局なるようにしかならないと判断したからだ。今は昼休みだ、そんな無駄なことを考えずに昼食を楽しむことにする。独りきりであったが。ちなみに和樹に友達はいない、学内でも学外でもだ。正確に言えば深い付き合いにある友人がいないというだけだが。友達居ない暦約十六年、これも深く考えてはいけない、泣けてくるから。
少々もの悲しい昼食を終え、和樹は教室に戻ってくる。教室の中は一昨日の事件のことで持ちきりだった。どうやら論理爆弾を用いた電脳攻撃は和樹が経験した一件だけではなかったらしい。同級生の言によると世界規模で行われた電脳攻撃事件だそうだ。日本以外にも米国、英国と電脳化先進国と呼ばれる国々が次々に挙げられていた。
同級生はどこか興奮した面持ちで、経験してみたかったなどと言っている。が、経験者から言ってやろう、そんな経験絶対しないほうがいい。倒れて呻く人々を実際に見ればその言葉にも納得できるだろう。和樹は未だにその姿が脳裏に焼きつきトラウマにもなっている。
その後も授業は滞りなく進み、ついに放課後になる。和樹は早足で図書館へ向かっていた。学園付属図書館、初めて訪れた人間は必ず迷うと揶揄される、広大な図書館である。併設されている大学と供用しているためこのような巨大な施設になっていた。児童文学から難解な学術書まで何でもそろってるとは、勤めている図書館司書の言だ。
そこで和樹は視聴覚ブースの片隅を長時間にわたって占領し、電脳症に関する書籍や電子書籍を片っ端から読み漁っていた。しかし新たにわかったことは少ない、と言うより全くなかった。電脳症自体が比較的新しい症例であることもあり、文献数が少ないためだ。なかには直行の考察をもしのぐ論文もあり、和樹の混乱をさらにあおぐことになる。
『何か分かりましたか、マスター』
『今知っていること以上の事はなにも』
――というか余計に混乱してきたよ。イリスの言に和樹は肩を竦めて嘆息する。ここに至り和樹は調べるのは無駄ではないのかとの思いに囚われはじめた。調べた事実のほとんどが直行のとんでも考察とほぼ同じ内容だったからだ。これならば直行の考察を聞いた方がはるかに実入りがあるかもしれない。そう判断し、もういい時間にもなっていたので図書館を後にすることにした。
和樹がそう考え席を立とうとしたとき、不意に声をかけられる。――珍しいな芹葉、こんなところにくるとは。チャットをかけてきたのは和樹の担任にして変人、直行だった。
基本的にチャットは誰もが全開にしていることが多い、無用心と思われるかもしれないが普通のチャットは開いたままにしておいたほうが楽なのだ。和樹もそういう人間の一人だった。ちなみにイリスと和樹の会話はクローズドチャットと呼ばれるもので、登録された個人間でしか行えない。
和樹にしてはその直行の台詞をそっくり返したかった。直行が図書館に出没するなど聞いたこともない。だから和樹はとても驚いたのだ。いつも閉じている電脳を開いてチャットをしてきた直行に。
和樹の驚いた顔を見て直行は面白そうに、近くの壁を指差し笑顔を浮かべながら肩を僅かに上げる。そこには図書館では静かにとの前時代的な張り紙があった。つまりは静かにするためにチャットで話しかけてきたのだろうか。それならば何と極端なことだ、こんな近距離でチャットをする意味はほとんどない。
だが、直行の行動を鵜呑みにすることは出来ない。張り紙の文面は比喩だ、それは直行とて分かっているだろう。分かっていてわざとやったとした方がこの変人の場合は筋が通る。つまりは直行は和樹をからかうためだけにこんなことをした可能性が出てくるのだ。そうであったのならば、変人の面目躍如と言ったところだが。そんな和樹の訝しげな視線に気付いたのだろう。直行は慌てて和樹に弁解を始めた。無論チャットでだが。
『すまん、すまん。少しからかい過ぎたかな』
――なにぶんそれを読んでいる人間が珍しかったからね。そう言って和樹の持つ本に直行は視線を向ける。それは電脳症その原因と発展と題された十年以上も前に執筆された書籍だった。電脳症関連の書籍の中でも迷書と呼ばれる類の本だ。なぜならば、電脳症は病気ではなく人間と電脳の新たな関係の始まりではないかとの言葉で締めくくられているからだ。
その本を何か眩しい物を見るかの様な目つきで直行は見つめ、和樹にぽつぽつと語り出した。いわく、著者が早世していなければ世界を変えていただろうと。和樹にもその思いは共感できる。イリス達管制人格を知る和樹にとっては、この本は紛れもない名書だった。
人と電脳の関係を端的に表している本はこれ以外に一つもなかったからだ。そしてだからこそ、世間からは一種のとんでも本扱いを受けているのだろう事も容易に伺える。その著者欄には長沼光輝と記されていた。
そこまで和樹は話を聞いて、直行がこの本の影響を多分に受けていることに改めて気が付いた。思い直せば直行のとんでも考察は、ほとんどこの本に書かれたことの延長線上にある。和樹はなぜ直行がこの本の内容にこだわっているのか、その理由を知りたくなった。
和樹のような状況になればこの本に書かれている事にこだわることも理解できる。しかし直行が電脳症だとは一度も聞いたことがない。それも当たり前だろうか、電脳症になった人間はほとんどがその事を隠して生きているからだ。
現代でも未だに電脳症の人間への風当たりは強い。法律で差別を禁じているにもかかわらず、その蔑視は根強いものだ。進学、就職のいかなる面でも電脳症の人間は忌避される傾向にある。そんな中で生活しているのだ、殊更吹聴して回ることではない。事実、和樹も自身が電脳症と呼ばれる状態であることは周りにひた隠しにしている。
「先生は、なぜこの本に興味を持ったのですか」
聞こうか聞くまいか思い悩む前に、和樹の口は勝手に言の葉を紡いでいた。その思ったよりもきつくなった口調に和樹は自分自身で驚く。詰問する気などさらさらなかったからだ。どうする、どうすると思考がループに陥ろうとして、直行の率直な言葉がそれを遮った。
「私は、電脳症なんだよ」
電脳症なんだ、簡潔だった、簡潔に事実のみを直行は述べていた。これが何の考えもない興味本位の浅薄な問いであったのならば、直行は適当にはぐらかしていただろう。実際に何人かの生徒に同じ様な問いをかけられて、はぐらかしてきている。しかし和樹は真剣だった、そして聞いてもいいのかという迷いをはらんだ目をしていた。
そんな瞳をした人間の問いを無碍にすることも出来ず、直行は簡潔に真実を教えた。あまり吹聴するべき事ではないが、知っている人間は直行が電脳症だと知っている。教えても問題ないだろうと直行は判断した。その言を聞いた和樹は、そうかとつぶやくと自らの思考の内に篭ってしまう。
その行動に少し失礼ではないかと思うが、なにぶん相手は年若い学生だ。仕方がないと直行は肩を僅かに竦め苦笑する。そしてもう一度和樹が直行に向き直ったとき、既視感に襲われた。あれはいつだっただろうか。そう直行が自身の恩師に電脳症だと告げたのは。目の前の和樹の行動はあのときの自分を連想させた。そしてその感覚は間違ったものではなかった。
「俺も、電脳症になってしまったと思います」
その言の葉に、ああやっぱりかと直行は思う。図書館の視聴覚ブースの一角で行われる会話はその開放的な雰囲気と対照的に重いものであった。
直行はそのとき判断に窮した。未だ教員暦の短い直行にはこういうときにどう行動した方がいいのか経験がなかったからだ。とりあえず場所を変えようかと直行は和樹に提案する。こんなところでする類の話ではないと判断したためだ。直行と和樹は図書館を連れ立って出ることにする、直行が先導し和樹が後についていくという形であったが。先にたつ直行の様子はどこかせわしないものだった。
和樹が連れてこられた場所は学園内にある鬱蒼とした森だった。ここなら誰かに聞かれることもないだろう、そう直行が言う。その言に和樹は直行が気を使ってくれてこんな場所に移動したことに気付いた。図書館の視聴覚ブースではいつ誰に聞かれるか分かったものではないからだ。確かに和樹としてもあまり他人に聞かれたくない話だ。直行には感謝してもしきれない。心の中で直行を拝んでおく。
そうやって直行への感謝を和樹がしていると。おもむろに直行が先ほどの会話を再開した。で、君も電脳症だってとの直行の問いに、そうだと思いますと和樹は答える。その返答に直行は黙考する。直行としてはその和樹の返答を信じてよいものか判断しかねていた。時たま電脳症と他の病気を勘違いしている者がいるためだ。
電脳症の診断は案外難しい。その難しさは医療機関ですら時たま誤診が起こるほどだ。ただの素人が判断していい病気ではない。しかしながら、絶対に間違えない診断法があることも事実だ。それは研究機関レベルでは広く知られているが、一般には全く知られていない電脳症を発症した人間の共通点でもある。
直行はそれを知っている。かつて直行がいた研究機関でそれを知らされた。自身が電脳症であるという診断と共に。直行は自身が行われた診断法と同じことを、今自身の生徒である和樹に行おうとしていた。それは実に簡単なことであった、ただ尋ねるだけだ管制人格の個体識別番号――IDはとだ。その問いに和樹は一瞬の躊躇いの後に答えた。
「……えっと、iris457812782164、だそうです」
その和樹の言葉を聞いて直行は眩暈がした。自身のときは別のIDであったが対応はほぼ同じ、それを聞けるのがさも当然といた様子だ。そもそも個体によってIDが違うことなど当たり前だ。これで和樹が電脳症であることは確定した。いかに直行といえど絶対ともいえる識別法に否を突きつけることは出来ない。だからこそ新たな仲間に敬意を持って接することに決めた。
「私のIDはluna571864231547と言う」
――疑って失礼だったね、そう言って直行は素直に頭を下げた。
疑ってすまない、そんな言葉と共に和樹は直行に謝られた。和樹にしては何もされていないのに謝られた形だ。ただ戸惑う事しか出来なかった。頭を上げてください先生、そう言うことしか和樹にはできなかった。
その後、和樹と直行の間に微妙な沈黙が降りた。二人とも次にどの様な言葉をかけていいか判断できなかったためだ。時間だけが無常に過ぎていく。その沈黙を破ったのは和樹に聞き覚えのない脳裏に響く声だった。
『直行さん、私を紹介してくれませんの』
そんなどこかすねたようなお嬢様然とした声が、和樹と直行の二人を再起動させた。直行はすまないと軽く苦笑交じりに応じ、和樹はいきなりイリスとのクローズドチャットに割り込んで聞こえてきた声に半ばパニックを起こしかけていた。その和樹の窮状を救ったのは、相手の管制人格からの強制割り込みですとのイリスの報告だった。
芹場君、私と電脳を同期してくれないか、彼女を紹介したいから。そう直行は言って和樹に右手を差し出した。電脳の同期はそれほど難しいものではない、双方に同期の意志があって簡単な身体的接触――握手でもすればいいのだ。和樹は少々戸惑ったがイリス以外の管制人格の姿を見てみたいと思った事も事実。
このさいイリスの危険です、マスターとの警告は無視し、直行の要請に応じその右手を取る。生徒を傷つけることはしないだろう、その程度には和樹は直行という人物を信用していた。
『始めまして、和樹さん。私はluna571864231547と申します』
――直行にはルナと呼ばれています。そう言ってその豪奢なドレスの裾を摘み、優雅に挨拶をしてのけた。その少女は一言で言えば貴族だった。豪奢な橙色のドレスに白い手袋。豊かな金髪は頭に編みこまれ、複雑に木漏れ日を反射する。顔の造詣は整っていてギリシャ彫刻を思わせた。それほどまでに美しい少女だった。
その少女――ルナに対してイリスは剣呑な視線を送っていた。それも仕方ないイリスの構築した論理防壁に一切触れずに強制接続してきた相手だ。和樹の個人情報を預かる身としは警戒して有り余る相手だった。和樹にもイリスとルナの相性が悪いことは見て取れた。一触即発、その四字熟語がぴったりと当てはまる雰囲気を醸し出す二人を見れば、どんな鈍感でも分かろうと言うものだ。
和樹としてはイリスとルナには仲良くしてほしい。それをイリスにそれとなく伝えると、無理な相談です、マスターと硬い声音で返ってきた。その対応に和樹は無理そうだと頭を抱え、傍らの直行に相談した。その相談を受けた直行の行動は早かった。
「謝りなさい、ルナ」
『嫌ですわ』
――第一、私程度に抜ける防壁しか作っていない彼女に問題があるのです。その直行の軽い叱責をうけて、返ってきたのはまたもや強制接続による傲岸不遜なクローズドチャットへの割り込みだった。そのルナの言に和樹は呆然として、イリスは歯噛みする。和樹はただマスターの言うことに異を唱える管制人格が珍しかったための軽いものだったが、イリスは違った。
ルナの言がある意味正しかったからだ。和樹の情報面での守りを担当するイリスにとってルナの言葉は耳に痛かった。チャット機能は電脳内では比較的浅い位置にあり論理防壁の強度もそれほど強いものにしていなかった、どこかで油断がなかったかと言えば嘘になる。
その考えに至り、イリスは全ての論理防壁を自身の構築できる最大強度に上げた。負担が増えるが和樹の安全には変えられないと判断したためだ。それを肌で感じたのだろう、ルナは満足そうに頷くと自身の非礼をわびてきた。今度は普通のチャットで。
『無礼は平にご容赦を』
『……忠告として受け取っておきます』
そしてそれに対してイリスもその謝罪を受け取りため息を吐く。声は硬いままだったがここに両者の和睦はなされた。そのことに和樹は胸をなでおろす。全面戦争にならなくてよかったとは後に語る和樹と直行の言である。
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