第一話
「夢であって欲しかったよ」
起き抜けに放った和樹の第一声はそんなものだった。和樹は寝ぼけ眼でイリスを見やる。流れるような青い髪、眦の釣りあがった目、それに見慣れた女子制服。自身と同じく昨日とまったく同じ容姿だった。
つまり昨日の事は夢ではなかったと言うことだ、実に嫌なことだが。願望と現実の乖離、よくある事だが実際に経験してみるとこたえるものがある。
いつまでも自室に篭っていてもしょうがない。そう和樹は判断するとイリスを意識の埒外において着替えを始めようとする。それを確認したイリスが和樹の視界から消える、どうやら五感への干渉を自ら切ったらしい。変なところで配慮のあるやつだと和樹は思う。
ある程度着替え終わると、イリスからのチャットが届く。それにもう出て来ていいよと返すと、直ぐになんとも言えないむず痒さと共にイリスの姿が現れた。今日は幸いにも休日。昨日話せなかった様々なことがある。それを和樹はイリスから聞き出そうとしていた。
トーストとサラダと言う簡単な朝食をとりながら、和樹はおもむろにチャットを使って疑問を切り出した。未だに電脳は閉じたままでだ。
『でだ、昨日のあれは何なんだよ』
『あれとは何を指しているのでしょうか。マスター』
その物の言い様に、そういえばもう一つ聞くべきことがあったなと和樹は思う。が、今は適当に流しておくことにする。間違いなく話しが進まなくなること請け合いだからだ。
『あー、あの情報の洪水みたいなやつの事だよ』
『昨日、十九時七分の情報過多の件でしたら……』
――論理爆弾の余波に巻き込まれたものだと思われます。昨日もそうだったが、イリスは怖いことをさらっという少女だ。論理爆弾、それは件のワイアード事件で使用されてから未だに世界で最凶最悪を誇っている論理兵器だ。詳しいことを和樹は知らないが、いかに危うい状況にあったかは理解できた。
一歩間違えていれば、和樹の電脳は回復不能の損傷を受けていただろう。その先に待つ未来は――想像したくもない。ワイアード事件の被害者達の辿った末路を和樹は直行の授業で知っていたからだ。
そんな状況になった自分の姿を想像し、和樹は嫌な未来予想図だと頭を振って追い出す。病院のベッドに拘束された自分の姿など嫌過ぎる。話をそらすためにもイリスにもう一つの疑問を投げかける。いわく、なぜ和樹の事をマスターと呼ぶのかと。それに返ってきたのは答えにならない答えだった。
『マスターは、マスターだからですが』
何を当たり前のことを、と言いたげな感じでさらりと答えるイリス。和樹はそれに大いに肩を落とした。その理由が知りたくて質問したのだ。それがこんな答えしか返ってこないのならば、その落胆は推して知るべきだろう。
一つ注釈を加えるならば、人間の脳と電脳は大家と店子の関係に近い。脳という巨大な土地に管制人格が間借りしていると言ったほうがいいだろうか。様々な恩恵を人間は受けているが、その実態は人間が主で電脳が従という主従の関係に近いものがあった。故に、イリスは和樹の事をマスターと呼ぶのだ。
和樹はマスターと呼ぶのは止めて欲しいと懇願するが、イリスは頑として譲らない。どうやらそこには引けない一線があるらしい。どうせ誰にもイリスの声は聞こえないのだ、和樹が恥ずかしい思いはしないだろう。
和樹はそう判断を下し、しぶしぶマスターと呼ばれることを受け入れる。肩を落とし嘆息する和樹に対し、イリスはさも当然とばかりにそのささやかな胸を張っていた。
和樹の生活はほぼ独り暮らしと言っていい。両親共に出張しがちで家にいないときが多いからだ。当然家事もほとんど自分でこなすことになる。和樹にとって休日とは数少ないゆっくり出来る時間なのだ。その時間を奪うことになった一因のイリスに和樹はあまりよい感情を抱いていない。むしろ無視できるのならば無視したいとすら思っていた。
片付けを終えて、和樹は買い物に行くために家を出る。朝食中に見たテレビでは未だに電脳攻撃の名残でネット世界が混乱していると伝えており、出来るならば電脳を外界から切断された状態にしておいた方がよいだろうと分析官が話していた。
どうやら昨日の事件は世界に大きな爪あとを残していたらしい。和樹にしてはもっと情報を手に入れたいという気持ちはあったが、昨日のような状態になるのは好ましくない。テレビの言に従って、大人しく電脳を閉じておくことにする。
買い物に行く道すがら、和樹はイリスのことを完全に無視して行動出来なかった。目の前をひらひらと舞う少女をどう無視すればいいのか、和樹には終ぞ分からなかったからだ。だからつい声をかけてしまう、そんなに興味を惹かれるものがあったのかと。それに返ってきたのは、至近に起動前の論理爆弾を確認しましたとの無感情な報告だった。
その簡潔な報告に和樹は目をむいた。電脳は外界に対し閉じているはずだ、少なくとも和樹はそう設定している。なのになぜ外界の状況がイリスには分かるのか、和樹には甚だ疑問だった。
結論を言えば、いくら電脳を閉じていても情報の傍受だけは可能なのだ。簡単に例えると電波を受信するラジオのようなものだろうか。雑多な電磁波を受信、解析しイリスは先ほどの結論に達したのだ。その事を和樹に説明し、イリスは何とか理解を得る。
『……みんな出来るのか』
『みんなが管制人格と言う意味でしたら可能です。ただ詳細に伝えることはできませんが』
そう言って視界の右下隅に、赤い色の小さい警告の表示を出す。その下には接続切断推奨の赤文字が躍っていた。――普通はこの程度が限界です、そうイリスは言い切った。イリスの言は本当なのだろう、どうりで先ほどからこの近くを通る人たちが首をかしげていたはずだ。唐突にそんな表示が出てきたら戸惑うしかない。かくゆう和樹自身も視界の端の赤い文字に戸惑っているのだから。
脳裏に昨日の光景が浮かんでくる。床に倒れ付し呻く人、人、人。無数とも言える人影が突然倒れる姿は、幾分冷静であった和樹にとってもショックだった。それは直感に近いものであったが和樹は確信している。あれと同じ事がここでも起こるだろうと。
そのことに対して和樹は無力だ。警察に知らせてもまともに取り合ってくれないだろう。もし取り合ってくれたとしてもその時は自分が間違いなく不審者扱いされる。善意の代償がそんな扱いでは報われない。
また自身で解決しようにも壁が立ちはだかる。今の和樹には知識もなければ、経験もない、もちろん権限はいわんやだ。ないない尽くし、だから和樹は手をこまねいてみているしかない。――本当にそうなのか、和樹は自問自答する。しかし答えは変わらなかった。和樹自身に今打てる手は皆無だ、そう和樹には。
「どうにかできないか、イリス」
思いついたときには、考えなしに口走った後だった。それに応えたのは、無効化する程度ならとの脳裏に響く凛とした声。ならばやろう、和樹はそう決心する。前回は和樹に何の手立てもなかった、だからこそ静観と言う選択肢をとったのだ。だが今回は違う、現状を改善することは出来なくとも、維持する目処は立った。だから和樹はイリスに問うた、論理爆弾はどこにあるのかと。――警察に匿名で連絡を入れるついでだったが。
『ここです』
イリスの凛とした声に導かれ、着いた先にあったのは何の変哲もない自動販売機だった。だがそれは擬態であり、一度牙をむけばあたり一帯の全ての人に災厄をもたらす。そんなそら恐ろしいものをその内に孕んでいた。和樹は連絡しておいた警察がいないかどうか辺りを見渡す。――誰もいない。警察は何をやっているのだろうかと和樹は思う。
こうなったら最終手段を使うしかない。それを考えれば誰もいないこの状況は僥倖と言えるだろう。これから和樹が行おうとする行為は、決して褒められたものではないからだ。意を決して電脳を開き問題の自販機へと近づく。――気持ち悪くなった。普段であれば何のこともない違和感も、極度に緊張している現在では、和樹に対し多大な圧迫になっていた。
『接続、解析開始……完了』
そんなイリスの声が脳裏に響く。イリスが解析をかけている間、和樹は目をつむっていた。そのほうが集中できるとイリスに言われたからだ。しかしその時間はほんの一瞬だった。目をつむって自販機に手を触れた一瞬のうちに、イリスは仕掛けられた論理防壁をかいくぐり論理爆弾の元へとたどり着いていた。その論理爆弾に対しイリスは幾重にも重ねた論理防壁をさらに重ねていく。その全てが和樹の個人情報を守るためにイリスが編み上げてきた論理防壁だった。
イリスが無効化する程度ならと言った理由がここにある。いかに管制人格といえども論理爆弾の解体など、マスターに知識のない現状では手に負えない。しかし隔離して封印するだけならば話は別だ。もとよりイリス達はマスターの情報保護と補助のために存在する。すなわち情報の隔離保存処置こそ、その本領を発揮すると言ってよい。
事実、イリスには十六年間、和樹の個人情報を不正な手段から守ってきたと言う自負がある。故に発動前ならば論理爆弾であろうと封じることが出来る。それは何物をも外に漏らさず、また内にも入れないというイリスの決意を表すかのような、鉄壁の牢獄――外部内部そのどちらからの命令も、そのまま返すと言う反射防壁だった。
もう手を触れている必要はない。和樹はそうイリスに言われ手を自販機から離す。あっけなかった、それが和樹の嘘偽り無い感想だった。時間にして数秒だろうか、論理爆弾の封印処置はそれだけで終わってしまった。和樹にしては何も見せ場の無い退屈なものだったが、それはそれでよかったと考えることにする。むしろ和樹に見せ場があると言う事態のほうが望ましくない状況だったのだから。
処置の済んだ自販機に電脳を通じて接続したまま、和樹は缶ジュースに視線を合わせる。一瞬違和感に襲われるがそれは直ぐに消え去り、自動的に金銭の授受が行われ、自販機の下の取り出し口から視線を合わせ注文した缶ジュースが出てくる。どうやら本当に封印処置は終わったらしい、その行動に今回の一番の功労者であるイリスは複雑な表情をしていたが。
「これが件の自販機、か」
「はい、そうです」
狭い部屋に自動販売機と二人の人間がいた。ここは警察庁情報対策課――簡単に言えば電脳攻撃専門の警察署――の一室であった。二人のうち一人は切れ長の瞳を持つ女性警察官であり、もう一人はどこかうだつのあがら無さそうな白衣を着た男性だった。女性のほうの名は柊真澄といい、男性は高木籐矢という名前だ。
報告は本当なのか。真澄が懐疑的に男に問えば、籐矢は本当ですと答える。そう答えるしかなかった。論理爆弾がある、その匿名の通報におっとり刀で駆けつけてみれば、そこにあったのは既に無効化された論理爆弾の成れの果てだった。おそらくは通報した誰かが無効化したのだろうが、その方法が尋常ではなかった。
論理爆弾が、一向に発動しようとしない。これこそが尋常でない手段の証左だった。現状、論理爆弾の処理方法は仕掛けられた物品の物理的破壊しかないとされている。その他の方法では時間がかかりすぎるため、論理爆弾の発動時間前に無力化など出来ない。そう言われてきていて、そしてそれは間違いではなかった。
だが目の前にある自動販売機はそれを否定する。二人とも自身の常識が壊されたためか、少々複雑な顔をしているが。無力化の方法自体は実に単純なものだった。理論的にはそれで無力化できることも二人は知っている。
しかしてこう実物を見ても、その事実をなかなか認められなかった。駆けつけるまでの僅かな時間に、完全な反射防壁を個人レベルで構築するなどどう信じろと言うのだ。しかし実物がある以上信じないわけにはいかない。真澄は直ぐに解析にかけるように傍らの籐矢に命じる。それに応えたのは無茶言わんといてくださいとの籐矢の泣きたそうな声だった。
技官としては高い技量を持つ籐矢であったが、流石に反射防壁の解析などは手に余る。ましては論理爆弾を押さえ込めるような防壁だ、一種の結界ともいえるそれを解析するなど技術的にも、時間的にも不可能に近い。
もし解析しようというのなら、最低でも一線級の技術屋を百人規模で使い、時間をそれこそ湯水のように使ってなお僅かな光明が見えるかといったものだ。現状の予算規模でそんなことが出来るとは到底思えない籐矢だった。解析するよりは無効化した人間を見つけるほうが、予算的にも人員的にも結果的には優しくなるだろうと真澄に進言する。
「その候補すら分からない現状を何とかしろと言っている」
「候補なら出てるじゃないですか」
ほらそこに、そう言って自販機の傍らにある膨大な量の書類――接続者名簿を籐矢は指差す。ブチン、幻聴だろうが何か致命的なものが切れる音を籐矢は聞いた。
「だから、絞り込めといっているんでしょうが!! 」
そんなことを言われても、絞り込んであれなのだ。籐矢としても仕事はちゃんとこなしている。接続者名簿に目を通し一応のあたりをつけているのだ。それでも、目の前の量になったというのがたちが悪い。
論理爆弾を仕掛けた人間の目星はついているが未だ捕まっていない。その犯人が論理爆弾を仕掛けたのはおよそ三日前だ、匿名通報で警官が駆けつけるまでの間の利用者は膨大な数に上っていた。その中には不正利用者もぽつぽつといるのだが、それを無効化した当事者とするには手際があまりにも見事すぎる。結局一般利用者にも容疑を広げざるを得ないと籐矢は結論付けた。
論理爆弾を無効化した人物が自販機の論理防壁に一切触れずに、論理爆弾の元までたどり着いたならば、不正利用者と一般利用者を区別することに意味がなくなるからだ。あんな完璧な反射防壁を構築できる人間が、防壁に触れるとも考えづらい。そこまで考慮に入れると件の書類の山となるのだ。ちゃんと仕事をしているにもかかわらず怒鳴られる、労働者の悲哀とはこういうものなのかと籐矢は思う。
もういいわ、真澄が嘆息しながら言葉を切る。それに籐矢は人海戦術以外に方法が見当たりませんと答える。その言葉に真澄は頭が痛くなってきた。ただでさえ昨日から続く、多発的な電脳攻撃で人手不足なのが現状だ、とても人員を裂く余裕は無い。それに無効化したものにたどり着いても罪に問うことは難しいだろう。
不正接続は立派な犯罪だが、証拠が残っていない以上、白を切られたら立件しても検察に付き返されるのが落ちだ。第一、褒められた行為ではなかったとしても、そのお陰で被害が未然に防がれたことも事実。出来るならば罪に問いたく無いというのが真澄の素直な心情だった。
警察官失格、その言葉が真澄の脳裏によぎるが、頭を振って追い出す。結局真澄は行動を起こすことを保留にする。籐矢の人海戦術しかないという言葉と被害が出ていないことがその判断を後押しした。ここに警察庁情報対策課、課長柊真澄はこの件についての一切を一時的にせよ忘れることに決めたのだった
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