第十二話
「論理防壁第三層まで突破されました!! 」
緊急に設けられた対策本部の中にオペレーターの声が響く。ここ電脳研は今現在、混乱の坩堝にあった。その本部の中に場違いな部外者二人がドアを開けて入ってきた。そのことにここ対策本部の責任者――向井藤尾はつい怒鳴ってしまう。部外者が入っくるなとだ。
それに対して部外者の一人は平然として、一枚の紙を藤尾の目の前に突き出した。ついその文面を藤尾は目で追ってしまう。そしてその文面に目を剥いた、滅多な事では出されることの無いその紙にだ。これを持ち出したこの部外者はよほど信頼されているのだろうか。
それともただ利用させる哀れな道化師なのだろうか。おそらく後者、そう考えると藤尾は少しこの無粋な闖入者に同情の念を禁じ得なくなる。目の前の部外者はどこか怒っていた、あの所長のことだ、だいぶ無理を言ったのだろうと見当をつける。藤尾の目の前に突きつけられたのは所長印の押された正式な外部人員への協力依頼書だった。
時間は少し前にさかのぼる。未だに厳しい暑さの八月も終わる頃。和樹は朝早くから真治の研究室を訪れていた。むろん直行に電脳戦の手ほどきを受けるためである。その小さな図書館とも揶揄される研究室で、和樹は今日も相変わらず学術書片手に勉強と言う名の拷問を受けていた。
そんな時である、部屋の前を駆けていく人間の足音を聞いたのは。それに続いて多数の言い争うかのような声が響いてきた。その様子に直行と真治もおかしいと感じたのだろう。和樹にここから動かないように言い含めると、ドアを開けて外に出て行く。事情を聞きにいったのだろう。和樹は手持無沙汰になりイリスと会話する。
『この騒ぎっていったい何なんだろうな』
そんな問いに返されたのは、この研究所が電脳攻撃をうけていますとのイリスの簡潔な報告だった。相変わらず怖いことをさらっと言う少女だ、イリスは。そのイリスの言に大変なことじゃないかと和樹は言い募る。慌てる和樹を落ち着かせるように、イリスはその言の葉を続けた。
いわく、和樹に被害が及ぶことは無いだろうと。和樹は一瞬安心する、そしてそれじゃだめだと思い直す。確かに和樹自身に被害が及ばないのは喜ぶべきことだ、しかしこのまま放っておくここも和樹には出来なかった。
自分に何が出来るのだろうかと和樹が考えていると、おもむろに直行が研究室に戻ってきた。その顔はどこか憔悴している。全く何を考えているんだ、そう独りごちると憤懣遣る方無いと言った様子で和樹に向き直り言い放った。
「私達も手伝う事になった」
――電脳症だという理由だけけでな、どうやらこの研究所も他の場所と同じ悪癖に染まってきたらしい、そう言って直行は和樹をある一室に案内していく。白亜の廊下を歩みながら、直行は和樹に、君の分だと言って一枚の紙を渡してくる。
和樹はその文言に目を通し、これってと直行にもう一度向き直る。それに直行は憎々しげに自分の分の紙を睨み付けると、正式な協力依頼書だ、外部人員へのなと言って肩を竦める。
「それとも、命令書と言ったほうがいいかもしれないな」
直行はそれ以降、黙り込んでしまう。命令書、その一言に和樹は一種の理不尽を感じる。確かに電脳症は電脳戦において一般人とは隔絶した技量を誇る。しかし道具ではなく、一人の意思持つ人間なのだ。それを道具の様に扱うとは何様のつもりなのか。和樹にはそんな考え方をする人間がよく分からなかった。
和樹が直行に連れてこられた一室は一言で言えば雑多だった。おそらく急いで作られた物なのだろう、コンソールは雑然と並べられている。そしてコンソールからはそのまま様々なコードがむき出しになっており、床をはがしてサーバへの回線に直接接続されている。
そんな雑然とした部屋の中で、入ってくるなと怒鳴られた壮年の男性に直行はあの協力依頼書を突きつけていた。男性の顔色が一気に変わり、そしてこちらに同情の視線を向けてくる。その態度に和樹は下の人間にはまともな人もいるんだなと、どうでもいい評価を下していた。
「では、手伝っていただきます」
――私はここの責任者で向井藤尾といいます。そんな声に和樹と直行も自己紹介を返す。そんな悠長なことをしていてもいいのか、と思われるかもしれないが礼儀というのも大事である。人間関係を円滑にするには。
こちらのコンソールを使ってください、そう藤尾は言って自分の前を指差す。それに躊躇い無く直行と和樹は電脳空間へと降下する。その傍らでは、外部人員、それも子供を危険な現場に放り込んだ所長への義憤に満ちた藤尾の姿があった。
電脳空間に降下して、一番に感じた感想は黒い泥だった。その最前線では押し寄せてくる黒い泥の濁流を何とか食い止めようと、一般の電脳技官達――光の玉が悪戦苦闘している。その只中に直行と和樹は互いに頷き合うと一直線に飛び込んだ。濁流が一気に押し返される。
そのあまりにもあれな光景に一瞬唖然とした電脳技官達であったが、直ぐに持ち直すと論理防壁の再構築にかかる。その練度は高く一気に二層分の論理防壁を再構築した。それを和樹と直行は見やるとまだ論理防壁を食い破ろうとしてくる、黒い泥の濁流に向かっていく。
また同様に黒い泥が押し返される。事ここに至り和樹と直行を脅威と看取ったのだろうか、黒い泥が一箇所に集まると今度は二人に襲い掛かってきた。慌てたのは電脳技官達だった、すでに目の前の二人が外部の協力人員だと言うことが藤尾によって伝えられていたからだ。
慌てて二人に論理防壁をかけようとして、それが余計な心配だったと悟る。論理防壁が既に展開していたからだ。青色と橙色の燐光を放つその複雑な論理防壁は到底自分達が構成できる密度ではなく、改めて電脳症の規格外さを認識する契機になった。
ちなみに普通の人間には電脳空間においてもイリス達管制人格の姿は見えない。あまりにも高密度すぎて、論理爆弾の様な高密度で複雑な論理防壁の塊にしか見えない。人の姿に見えるのはそれを読み解ける人間、つまりは電脳症の人間だけ。実際に黒い泥の塊を防いだのもイリス達管制人格だ。
『大丈夫ですか、マスター』
『油断が過ぎますわよ、直行』
二人の目の前で黒い泥を押さえ込みながらイリスとルナの両名が話しかけてきた。一方はどこか心配げに、もう一方は呆れたようにという違いはあったが。その二人に和樹と直行はそれぞれ片方は素直に、もう片方は飄々と応じる。
『ありがとう、イリス』
『少し実力を見たくてね』
電脳技官達の心配とは裏腹にどこか暢気な会話が交わされる。その会話が一段落着くと、おもむろにルナが言ってきた。で、この泥はどうしますのとだ。それに直行が答えようとして、異変が起こる。
黒い泥がその形を変えていったのだ、人の形に。その人物の形に和樹は見覚えがあった。公園であったどこか幽鬼めいた少女――サリアの姿だった。いったいなぜサリアの姿になっているのか和樹には分からなかった。だがそれと同時に放たれた、よけろとの直行の言葉に反射的に和樹は身を翻す。
はたして和樹がいた場所に、黒い戦斧が通り抜けていった。それは一撃でかすった和樹の論理防壁の大半を持っていくと、そのまま電脳研のサーバに向かっていく。慌てて直行が後方に下がり、その戦斧を自身の論理攻撃で相殺した。
黒い人型の論理攻撃が続き、その全ては電脳研のサーバに向かっている。直行とルナは後方でその論理攻撃の相殺に追われることになる。ここに至り自由に動けるのは、イリスと和樹だけであった。
『芹葉、そいつの事は任せる!! 』
直行は和樹にその黒い人影への対処を一任したのだ。直行が後方での黒い戦斧の相殺に手一杯である以上、それ以外に対処の仕様が無かった。対処を一任された和樹の方はたまったものでは無い。いかに模擬戦をつんでいるとはいえ、実戦は初めてだ。どう対処しようかと思案する。
いかに対処するかを和樹は考えて、結局いつもの模擬戦の様にするしかないと結論を出す。和樹はその身に幾重にも論理防壁を張りなおすと、件の黒い人影に最高速度で向かっていった。無論、イリスと共にだが。ここに黒い影と和樹達との激戦が始まった。
和樹が自分に向かってくると判断した黒い影の行動は早かった。動かしていなかったもう片方の腕を翻すと、そこにまた黒い戦斧が現れる。その数は七本、僅かにかすっただけで和樹が構築した論理防壁を複数枚奪っていった強力な論理攻撃だ。イリスの補助があるとはいえ、油断していいものではない。
そうして和樹が警戒していると、黒い影はその七本の戦斧を和樹に向けて放ってきた。イリスがその能力の限界まで使って、和樹に向かってきた七本の黒い戦斧に個別妨害をかける。しかしながらその七本の戦斧は一本として狙いを和樹からそらすことは無かった。
そのことにイリスは驚きを覚え、同時に納得した。和樹は乱数回避を行っていない、と言うか未だ行えない。乱数回避を行わなければ、個別妨害の効果は半分以下になる。標的から外れないのも当然だ。一つ位は外れてもいいだろうにとイリスは思うが。
和樹に向かってくる黒い戦斧を一本一本確実に相殺していく。和樹が敵に向かうと言うなら、その露払いはイリスの役目だ。そして相殺した本数が五つに達しようとした頃、和樹がようやく黒い影の元に辿り着く。
ここからは和樹の戦いだ論理攻撃を纏った右手を黒い影に突き出す。しかしその和樹の論理攻撃は空を切る。間合いを開けられてしまった。そう和樹は嘆息しもう一度、黒い影に向かっていく。
今度は間合いを開けられないように、連続してその拳と足を繰り出していく。右手を突き出したかと思えば、左膝が黒い影の鳩尾辺りにせまる。それを回避されれば今度は左肘を黒い影の頭の部分に叩きつける。
そんなやり取りが数十合行われて、ついに和樹の拳が黒い影を捉える。しかしその手ごたえはおかしなものだった。まるで水風船を殴っているかのような感覚だったのである。そのおかしな感覚に和樹は一瞬、不快感をあらわにする。
一瞬、その一瞬が命取りだった。一気に間合いを開けられると、またもや黒い戦斧を形作られてしまったのだ。その数は和樹の目には無数としか映らなかった、そんな和樹にイリスは総数百を超えていますと警告する。そして一気にその斧群を放ってきた。
それからの戦いは凄惨を極めた。なにしろ百を越える斧群が電脳研のサーバに向かってきたのである。和樹も直行も黒い影のことなど無視してサーバの防衛に回らなければなら無かった。イリスもルナも必死だった、必死でその斧群を相殺していった。
結果ここに黒い人影が黒い戦斧を無数に作り出し、和樹と直行がそれを相殺していくと言う膠着状態が出来上がる。基本的に管制人格はマスターの補助しか出来ない。マスターである二人が相殺に注力している現状では、黒い影に対してなんら有用な対抗策を持ち出せない。その戦いは長期戦の様相を呈してきた。
そんな膠着状態が電脳空間で出来上がっていた頃、現実世界では三十秒も過ぎていなかった。和樹と直行が降下してからだ。両者の体は他の電脳技官と同じように椅子に腰掛けられており、その目はつぶられている。その姿を見やり、電脳症の人間にしては長いなと藤尾は考えていた。
藤尾は電脳症についてあまり詳しくは無かったが、その異常性は何度も目にしてきている。それは電脳技官としての自尊心をぼろぼろにするような異常性だ。それでも彼らは人間だと藤尾は自戒している。それは何か化け物でも見るかのような目つきで見てしまう自分に、ともすれば負けそうになるからだった。
電脳世界では未だに接戦が続いている。和樹と直樹は相変わらず黒い影からの戦斧への対処に忙殺されていた。サーバを背後に立ち回る彼らの戦いは一切のミスを許されなかった。一つでも戦斧を後ろにそらせばサーバを破壊されるからだ。ここにきてその防衛という足かせが効いてきていた。
本来であれば電脳症の人間には回避という選択肢がある。しかしながらサーバを守るということに重点を置けば、その選択肢は無くなる。結果、迎撃か防御という二択になってしまうのだ。その状況ではイリス達の本領は発揮できない。もとよりイリス達は、電脳という小規模な物を守るために特化している。サーバといった巨大なものを守ることに慣れていないのだ。
そのためか和樹とイリスはミスを連発し、それを直行とルナがフォローするという構図が出来ていた。いっそ直行とルナだけのほうが効率的かもしれない。しかしながらこの状況で和樹とイリスを現実世界に戻らせることも出来ないだろう。
現実世界に戻るためには一瞬だが無防備にならざるを得ない。先ほどからひっきりなしに黒い戦斧が降ってくる以上、そんな命とりなまねは出来ない。事実、和樹にも直行にもそんな事を考えている余裕は無かった。
上下左右、四方八方から降ってくる黒い戦斧を和樹と直行は獅子奮迅の活躍でもって迎撃していく。あるものは殴り、あるものは蹴り、またあるものは自身の論理防壁の強度に任せて受け止める。そんなこと繰り返しながら、直行はこのままではじり貧だと考えていた。
その判断を下した直行は迎撃する手を止めず、ルナに黒い影の解析を命ずる。それにルナは無言で了承の意を返してきた。本来であれば防御型であるイリスの方がこういう仕事に向いている、しかしながらそのイリスは今現在余裕が全く無い。ここは少しは余裕を作り出すことが出来る直行とルナが行うべきだろうとの判断だ。
本気の電脳戦などいつ以来だろうか、そんな埒のないことを考え直行はルナに任せていた黒い戦斧の一部を引き受ける。直行の右指が一つ鳴らされると、電脳世界を一筋の白光が切り裂いていく。
巨大な白い鎌の刃が直行の右手側の空間に現れたのだ。それは一瞬で消えていったが、その消えるまでの間に黒い戦斧を巻き込んで破壊していった。その死神が持つかのような鎌の刃を次々と繰り出し、直行は黒い戦斧を霧散に帰していく。
その直行によって作られた余裕を持って、ルナは件の黒い影を解析していく。幾重にも張り巡らされた論理防壁を解析し正規の接続手順を求める。それは針の穴に糸を通すかのような、気の遠くなる作業だ。だがルナは任せてくれた直行の信頼にこたえるためか、意気軒昂であった。
AIの思考を人間の様に表現すれば、それは歓喜だった。不正接続を繰り返した果てについに自身の訓練相手としてふさわしい人間に会えたからだ。警察庁サーバ内に導入されてからAIは暇をもてあましていた。どの様な不正接続者であってもAIの敵になる者はいなかったためだ。
そのためAIは受身ではなく能動的に自身の電脳戦の練習相手を探していた。AIにとってはすでに沙里亜に勝てるようになるということが第一目的になっている。故に警察庁サーバの守護など、どうでもいいものなのだ。そのために導入されたにも拘らずだ。
AIはその機械的な冷静を通り越して冷徹とも言える視線で、目前の対戦相手――和樹と直行を分析する。その結果は沙里亜には劣るが練習相手としては十分という評価だ。彼らとどう戦おうかと思案して、沙里亜の真似をすることにした。
自身の黒い泥といってよかった姿を沙里亜と同じような姿に変え、和樹と直行に相対する。そして沙里亜と同じように論理攻撃を構成した。しかし沙里亜と同じ論理攻撃を構成したつもりでも、どこかそれは異なっていた。それも当然だろうか論理攻撃、論理防壁にはにはそれぞれの個性がどうしても出てくるのだ。
それは和樹とイリスであれば青色だったり、直行とルナであれば橙色だったりそんなものであった。その点で言えばAIの個性は黒だ。何者をも侵食するかのような漆黒がAIの個性である。
故にいくら沙里亜の真似をしても、それは真似でしかなく全てが劣化コピーであった。もちろん模倣を全て否定するものではない。全ての事は模倣から始まるからだ。赤ん坊の言語学習から、高度な職人芸の継承まで全ては先人の模倣から始まっている。そういう意味ではAIが人間に近づいたといえる。むしろ嫌悪や嫉妬といった感情を持たないAIの方がその点では人間より優れてるのかもしれない。
そんなわけでAIは和樹と直行の必死さとは裏腹にこの電脳戦を楽しんでいる。それも思いっきりだ。今までの鬱憤を晴らすかのように、和樹と直行に自身の防御を考えずに論理攻撃を行使している。そのため、ルナがAIの分析をしていることなどAIの意識の埒外であった。
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