第十話
和樹は課題を早めに切り上げ、職員室に来ていた。先ほどのことを直行に相談しておきたかったからだ。ガラガラと鳴る引き戸を開け、和樹は暑い廊下から冷房が効いた職員室へと失礼しますと言いながらその身を放り込んだ。
夏休みの職員室は一言で言えば閑散としていた。それもそうだろう部活や補習がある教師の方が少数で、大多数の教師は盆休みをとっていたからだ。その中で直行は数少ない補習組の教師であり、レポートの添削に追われていた。そんな忙しそうな直行の様子に、一度出直した方がいいかと考えた和樹であったが、後ろを振り向かずに放たれた直行の言葉にそれを遮られた。
「どうした、芹葉」
――何か困ったことでもあったのか。ここに至り和樹は出直すことを諦め、先ほどの警察との邂逅を掻い摘んで直行に話す。その言に直行が返したのは簡素な言葉だった。いわく、放って置いていいだろうとだ。そのいっそ無責任とも言える一言に、和樹はあんた担任だろうがとの言葉が喉まで出掛かるが、ぐっとこらえる。何か考えがあってのことだと思い直したからだ。
実際にはそんな深い考えが直行にあった訳ではない。ただ警察に話を聞かれたということだけなら大事ではないと判断しただけだ。これが警察に連れて行かれそうになっていたら、直行はもっと慎重な対応をとっていただろう。直行は優秀な人間だったが、所詮人間である、ミスをすることもあるのだ。
今回もそのミスであった、忙しさにかまけて生徒の話を真剣に聞かないなど言語道断だ。しかして優秀な人間とはそのミスを挽回するのも上手い。和樹の様子に剣呑なものを感じ取ったのだろう。すまん芹葉、もう一度詳しく説明してくれとその手を止めた。
その言葉に和樹は仕方なくもう一度説明を繰り返す。今度は直行も真剣に聞いていた。そして直行から出てきた言葉は、まずは不正接続は犯罪だという説教だった。それに和樹は、ただ項垂れてその説教を聞くことしか出来なかった。
一通りの説教が終わると、和樹にとっては物騒な声が聞こえてきた。それに聞き間違いかともう一度直行に何ですってと尋ねる、しかしてそれは聞き間違いではなかった。
「課題を厳しくするしかないと言ったんだ」
尋ねた和樹に地獄の獄卒めいた声が聞こえてきたのだ。それに和樹は悲嘆にくれた。今の課題だけでも日中一杯かかるのだ。いわんやそれが増えたのならば、かかる時間が増大するのは火を見るより明らかである。確実に家にまで持ち帰らなくてはならなくなるだろう。
そんな未来予想図に和樹が悲鳴を上げていると、恨むならなら自分の軽率さを恨むんだなと非情な声が降りてきた。本格的に和樹は泣きそうになった。直行に向かって鬼、悪魔と言うが、その言葉を華麗に無視して直行は話を進めてくる。
「で、今日の課題は終わったのかな」
その声に和樹は意気消沈して、まだですとしか答えられなかった。結局和樹は今日の分を含めて、二倍以上に膨らんだ課題を直行から拝領することになる。そのことに和樹は相談しなかったほうがよかったと盛大に肩を落とすのだった。
和樹が職員室を辞した後、直行は先ほどと同じようにレポートを添削しながらルナと会話を交わしていた。その内容は和樹が電脳症だと警察が突き止めるかどうか。直行の意見は無理だろうとのものだったが、ルナの意見は違った。必ず突き止めるだろうとのことだ。直行がなぜかと問えば、それに返ってきたのは呆れたような声だった。
『警察はそんなに無能な集団ではありませんわ』
そのルナの見解に直行は懐疑的であった。直行にしてみれば警察とは無能の代名詞だ。何しろ小さい頃に散々電脳空間で行った悪戯が、迷宮入りしているぐらいだからだ。無論それは一切の痕跡を残していないからだが。
直行は幼い頃から呼吸するように現実空間と電脳区間を行き来きし、ルナと会話することが出来ていた。むしろ電脳空間こそが直行にとっての現実空間と言ってもよかったのだ。故に証拠を残すへまなど犯さなかった。
ちなみに電脳化は乳幼児期に行われることが多い、なぜならば電脳は医療用微小機械の司令塔も兼ねているからだ。その医療用微小機械のお陰で乳幼児の死亡率は、不慮の事故や重篤な先天的疾患を除けばゼロと言っていい水準にある。
閑話休題、そんな直行である、警察は幼い自分の稚拙な悪戯すら見抜けない無能だという先入観が出来上がっていた。その先入観をルナに指摘され直行は内心動揺する。確かにそんな先入観を持っていては正確な状況判断は出来ない。
それに今の和樹は幼い頃の自分のレベルにすら達していないのが事実だ。故に課題をさらに増やしたのだが、それでも付け焼刃でしかない。警察に証拠を握られていてもおかしくない。とは言ってもその可能性は限りなく低いだろうとも直行は考えている。
イリスは優秀な管制人格だ。ルナと互角に遣り合えているという事からも、それは伺える。そんなイリスが証拠を残すことはないだろう。おそらく警察は、和樹の自白と通報以外の証拠を得ていないと考えるのが妥当だ。
事実和樹は説諭のみで許されている、一種の自首扱いになっているのかもしれない、警察内部では。それに和樹の行為がなければ被害が出ていた可能性もある。和樹の行為は決して褒められたことではないが、かといって否定できる行為でもないはずだ。故の説諭なのだろう。
そこまで考えて手元のレポートに目を落とす。考えに集中するあまりレポートの添削作業は自然と滞っていた。それを見ていた同僚の教師が、西側の雲ひとつない空を職員室の窓から真剣に見やって、明日は雨かななどと呟いていたのが直行の印象に残る。
レポートの添削作業を高速で再開し、直行は和樹のことをさらに深く考えていた。考えていたことは、和樹の今後のことだ。このまま手元で育てることも一考に値するが、やはり専門の機関で教育を受けたほうがいいだろう。それが裏側の機関であることに一抹の不安があるが、直行がいた頃と同じならば問題ないと思われる。
ルナにもその旨を伝えると、そうした方がよろしいですわと返ってきた。警察にマークされている現時点ではそうする方が妥当だろうとも。その後の直行の行動は早かった。素早く今日の分のレポートを片付けると、どう連絡を取ろうかと考えていた。
やはりというか和樹は、図書館で課題と未だに格闘していた。未だに終わりの見えないそれの合間に和樹はイリスと今日のことについて話し合う。和樹がイリスに最初に確認したのはもちろん件の自動販売機についてだった。
『一切証拠は残していないんだよな』
『自動販売機には不正接続の痕跡は残っていないと思われます』
その言に和樹は引っ掛かりを覚える。なぜイリスはそんな奥歯に物が挟まったような言い方をするのだろうか。いつもはもっとはっきりと言い切っているはずだ。それこそはいの一言で終わっているはず。なぜそんな言い方をするのか考えて、和樹は思い出した。
そう和樹は買っていたのだ例の自動販売機で缶ジュースを。和樹は頭を抱えて煩悶する。通りでイリスが回り持った言い方をすると思った。和樹のミスならイリスが言いにくそうにしているのも納得できる。だからイリスに問うてみた。もしかして俺のせいか、イリスと。それにイリスは暫しの逡巡の後、答える。
『接続記録が残っていたものと思われます、故に……』
――警察がマスターの元に来たと推察します。和樹の推論をイリスの言が補強する。覚悟していたことだが、和樹のミスだと直接言われると結構胸に来るものがある。それにイリスは接続記録を抹消しなかった私のミスです、と深々と頭を垂れた。そのイリスの態度に和樹は憤慨する。だから和樹はイリスに強い調子で言ってやった。
『イリスのミスじゃない、俺のミスだ』
なおも言い募ろうとするイリスだったが、全て和樹に拒絶される。和樹は押しが弱いくせに変なところで頑固だった。その和樹の頑なな態度にイリスはついに折れる。そうだと思われます、と。それに和樹は笑みで応じた、ほらやっぱり俺のミスだと。自身の失敗を自身で証明したことに喜ぶとは、やはり和樹はどこかでずれていた。
そんなやり取りをイリスと交わしているといつもの帰る時間になる。その帰る道すがらもイリスとの会話に和樹は時間を費やしていた。その話題はやはりと言うか、件の日中に訪ねてきた警察のことであった。
『それにしても、警察がわざわざ訪ねてくるなんてね』
『……必然だと思われますが、マスター』
そんな和樹のある意味暢気な言に、冷静なイリスの指摘が入る。それに和樹が首を傾げていると、イリスはとつとつとその推論を語りだした。いわく、件の自動販売機に仕掛けられていた、論理爆弾を仕掛けた人間を探していたのでしょう。とのことだ。
『そんなこと一言も言ってなかったけど……』
イリスは首を振ってその言葉を遮る。その行動からイリスにもその理由は分からないのだろう。それが当然だ、最初の推論自体がむしろ出来すぎと言っていいのだから。だが和樹には疑問であった。なぜ和樹が不正接続をしたのに許されたのか。だが考えても埒が明かない。和樹はいったん考えることを放棄する。
『少なくとも不正接続はしないほうがいいかな、イリス』
その和樹の言にイリスはそうですね、と答えた。それは事実だろう、しかしいくら警察に釘を刺されたとはいえ、和樹は同じ様な状況で無視をするなど考えられない。未だに和樹の脳裏には倒れ伏し呻く人々の影がちらつくことがあるのだ。あれと同じ光景など見たくない。
やっぱり、俺は無視することが出来ないな、そう独りごちると和樹の中から静観と言う選択肢は無くなっていた。後はどう警察にばれずに論理爆弾を無効化するかだ。そう結論付けると和樹はイリスに問うてみた。
ばれずに論理爆弾の解体は出来るのかとだ。それにイリスは渋面を作ると、私には無理ですと歯噛みした。もとより管制人格は情報保護に特化している、攻撃型、万能型ならばいざ知らず、防御型のイリスに論理爆弾の解体は荷が重かった。
しかしそれはイリスにはである。イリスはその事実を告げようかどうか逡巡して。何か言いたいことがあるのかい、との和樹の言に背を押される。イリスが告げた言葉は和樹にとって望外なものだった。
『今のマスターならば可能と思われます』
そう告げたのだ、イリスは和樹に。そのイリスの言に和樹はまた首を傾げる。事、電脳戦において和樹は直行にすら勝てないのだ、いわんや管制人格にも手に余る論理爆弾の解体など不可能に近いものである。少なくとも和樹はそう認識していた。
イリスはその和樹の言に、どう説明したものかと頭を悩ませる。確かに和樹の言葉は一面において正しい。しかし今の和樹ならば論理爆弾の解体も出来るだろうとのイリスの認識も正しいのだ。この約二ヶ月間の直行の課題は、論理爆弾の基礎と言っていいものだった。それに和樹は、論理攻撃を発動させずに無効化する技術を直行に叩き込まれている。
論理爆弾は電脳世界において最凶最悪と言われているが、大雑把に言えば多種多様なただの論理攻撃の塊なのだ。その構成が複雑怪奇なだけであって、決して解体できないわけではない。ただ解除にかかる時間がべらぼうに必要だと言うだけで。
一般的な人間には知識と技術があっても時間的に一つ二つの論理攻撃の解除が限界なのだ、論理爆弾の発動までに。一線級の電脳技官でも五つ程度が限界だろう。それほどまでに論理攻撃は発動させずに解除するのが難しいのだ。
しかし和樹はその行動を高速かつ正確に出来るようになっている、ならざるを得なかった。そうでなければ電脳症同士の電脳戦など行えないからだ。直行もそれを理解して、模擬戦を出来るだけ行う様にしていた。いつのまにかに一樹は論理爆弾の解体に必要な知識と技術を習得していた。後は時間的な問題だけしかない。
そして和樹は電脳症であった。一般人と電脳症の人間の電脳世界における時間感覚は隔絶したものがある。一般人は現実世界と電脳世界の時間感覚にずれはない。しかし電脳症の人間は違う。
一人一人その電脳適性によって多少の違いがあるが、おおよそ電脳世界での一時間が現実世界での一秒に値するのだ。三千六百倍もの時間差があれば、時間の問題はほとんど考慮に入れなくてもよくなる。かくして和樹には論理爆弾を解除するために必要な条件がもう揃っているのだ。
そのイリスの説明を聞いてもなお和樹は懐疑的であった。やはり電脳戦において同じ人間である直行にすら互角に戦えていない事が和樹の自己認識を阻害していた。そんな和樹にイリスもう一度和樹自身の技量が論理爆弾を解体できるレベルに達していることを丁寧に説明する。無論イリスの補助があってのことだが。
そうやって熱心にイリスが和樹の技量が向上している事を語ったのが功を奏したのだろうか。和樹はようやく本当にようやく納得した、どうやら今の自分には論理爆弾の解体を出来るだけの技量があるらしいと。
それを認めて和樹はもう一度、これからどうしようかと思案した。結論はあっけなくでた。やはり和樹はあの電車の中の光景をもう見たくない。論理爆弾を見つけたらそれを解除しようと心を決める。イリスにも協力を依頼すると、分かりました、マスターと凛とした心強い声が返ってきた。
もし不正接続が見つかれば今度こそ警察に捕まる。だが見つからなければいい。それはあまり褒められた思考ではなかったが、イリスがいればその証拠も残ることはないだろう。電脳症とはそれだけの力を持っているのだから。
そうやって和樹が新たな決意をしていた頃。情報研の一室では今日も今日とて智彦が沙里亜に話しかけ、いつも通りの無表情で返されると言うやり取りが続いていた。周りの研究者たちは、よくもつなと半分呆れてその光景を見やっていた。もちろん残りの半分は同情である。
事実、最近智彦の労をねぎらう研究者達が現れてきたのだ。半分諦め気味だった沙里亜との会話を再開しようという者もいた。その事実にこの研究室の代表者である泰助は、静観の構えを取っていた。泰助としては電脳症の治療さえされなければどうでもよかったからだ。
何度も言うが、泰助にとって沙里亜は研究対象以上の何者でもなかった。故に自身の研究である沙里亜の電脳症の弊害にならないことに、一切の興味を持っていなかったのだ。そのため泰助は智彦の行動を意味の無いものとして、思考の埒外においていた。
しかして実際は異なっていた。意味は無いと泰助が考えていた智彦の行動は、電脳症の一種の治療になっていたのだ。未だ電脳症は謎な部分が多い、そのため泰助の研究手法も非人道的な方法だといわれながらも裏側では容認されているのだ。いわんやその治療法はである。
以前にも説明したが電脳症は現実世界と電脳世界の境界が曖昧になる事を指す。智彦が行っていた行動は電脳世界が主であった沙里亜に、現実世界を認識させる契機になっていた。そのため一種の治療になっていたのだ、誰もあずかり知らぬところで。智彦は今日も知らず知らずの内に沙里亜の電脳症を治療していっていた。
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