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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第二十章  奇襲 (2)

市川局の前で、この世界が、一度ぐるりと回転したようでした。強い陽の光がいちどきに差したように、廻りのものや人々の背が鈍く輝き、動きを止めたように思えました。そのあと激しく視界が揺れ、眼が(くら)んで、局は思わず前によろけそうになりました。生まれてはじめて受けた、(はげ)しい衝撃です。


かつて、いかなるときも、局が斯様なまでに弱々しく、眼前の事態にただ打ちのめされてしまうことなどございませんでした。かつての局であれば、どのような驚きにも、どのような脅威にも、生まれついての(はげ)しい気性と、身体の芯に植え込まれたような土性骨(どしょうぼね)とで、ぐっと踏みとどまり、すぐとそれに雄々しく立ち向かったに相違ありません。


しかし、夫・市川経好の優しさと、三人の子らへの愛情とに包み込まれたような幸せな日々を過ごしたこの十年余は、そんな局のお人をすっかり、変えてしまっておりました。その眼に宿っていたきらきらとした輝きは、いつしか子らの健やかな成長を微笑みながら見守る母の柔和な光となり、すぐに発するあの激情はしばしのあいだ影を潜め、最近では、子らも、家人のほとんどもそのような様を見ることなく、「聞かん気の姫」の風評は、いつしか過去のものとなっていたのでございます。


この穏やかで幸せな日々は、いつしか、局の心の(とげ)を抜き、角を丸め、同時にそこへ植わっていた土性骨の(つよ)さをも、少しばかり弱めてしまっていたようでございます。局に、この絶望的な事態へ正面から立ち向かい、あの雄々しきかな様のご気性を取り戻すため残された時間は、ごくわずかでございました。


左座は、一刻たりとも無駄にしませんでした。この家の主である市川局と、御曹司(おんぞうし)の元教様との存在を無視し、両名に(はか)らず、自分で次々と指示を出しました。数名の使用人が、慌てて梯子(はしご)や板切れ、金具などを持ってきて屋敷の門を固く打ち付けようとしておりましたが、左座は叱って、彼らを散らせました。


「この屋敷では防ぐ(あた)わず!われら、鴻ノ峰(こうのみね)に登り、そこに(こも)るべし!みな、武具や得物(えもの)のすべて、持てるだけ持ち、峰へと登れ!」

「なんと!」

これには、局も、元教様も、邸内の全員が吃驚(びっくり)しました。




すでに述べましたとおり、鴻ノ峰は、かつて今は亡き大内義長公が毛利の侵攻に備え、高嶺(こうのみね)と名付けた城を築こうとなされた峰でございます。しかしながら敵勢進出の(はや)さに間に合わず、ご自身はこの城に籠ることをあきらめ、長門へと落ちて行きました。それ以降、町を占領した毛利氏は、ひたすら外へ向けて領域の拡大を続けたため、この城の価値は薄れ、そのまま放棄されていたのでございます。


左座は、その未完成の城、おそらくは山の斜面をあちこち削平(さくへい)しただけの、砦とすらいえぬであろう山塞に引き籠ると申します。距離は近く、ここから荷を担いで登っても一刻とはかかりますまい。しかし、それにしても大軍を迎え撃つには、この城には不安しか残りませぬ。仮に未完成の柵がひとつでも破られた場合、城内で敵勢と切り結ぶことのできる精兵などほんの一握り。おそらくは数十名程度しか、この山口には残っておらぬのでございます。


毛利は、油断しておりました。博多の攻落を目前に、その得られる果実の旨味にだけ目が向き前のめりになり、自らの立つ足元を見ておりませんでした。本来は拘置しておくべき、最低限の防衛兵力にすら海を渡らせ九州へと派遣していたのです。いま、ここに、せめて市川経好殿と、その手勢(てぜい)数百ばかりでも残っておれば!この数でまとまって鴻ノ峰に籠らば、数日のあいだ、時を稼いで抗戦することはできるでありましょう。しかし今は、その手勢すら居らぬのでございます。


しかし、とにかくいま皆が頼るべきは、左座。左座宗右衛門ただひとりあるのみ。その左座が、その高嶺城に行けと言うのです。行くしか、ありませんでした。

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