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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第十九章  渡海 (4)

永禄十二年、神無月の十日の夜。


すべての準備が、整いました。決死の(つわもの)どもは、その数、約一千名。みな、この旅路には帰り道が無いことをよく承知しております。豊長のあいだに横たわる長い瀬戸せとを押し(わた)り、秋穂浦(あいおのうら)に上陸して、そのまま山口を()とし、迅速に長門を制圧するしか、彼らに生き残る道はございません。古今のすべての戦例において、彼らは間違いなく最高の勇敢さを持った戦士たちでした。身分の上下なく、その顔には決意が(みなぎ)り、眼には爛々(らんらん)とした光が宿っております。


彼らは、かつての長門国主の血筋を受け継ぐ大内輝弘を奉じ、大友方の若林水軍が総力をあげて仕立てた安宅船(あたかぶね)三隻、関船(せきぶね)十八隻へ分乗しておりました。これら約廿(にじゅう)隻の大船のあいだを、小早(こばや)が敏捷に走り廻り、相互の連絡と警戒に当たっております。


各船には、兵員とともに、すでにじゅうぶんな量の戦闘資材を積み込んでありました。各船そのまましばらく波間に揺られながら待機しておりましたが、時と潮の頃合いを見計らい、大艦隊は、乾坤一擲(けんこんいってき)の策を胸に秘め、豊後の隠し(とまり)を静かに出帆して行きました。


泊を見下ろす丘の上から、老いたる謀臣が馬を降り、ひとりぽつねんと立ちすくんだまま去りゆく船影を見送っておりましたが、もちろん、船上の輝弘はこのことを知りません。




すでに村上海賊衆は今回の襲撃をただ黙認する姿勢を見せており、途中、海路の邪魔を恐れる必要はございません。大艦隊は堂々と潮流に乗り、わずか数刻の航走で、計画通りかなたに秋穂浦の灯火が見えてまいりました。


黎明(れいめい)の空を背景に、こちらの艨艟(もうどう)の影を視認したのでありましょう。それら灯火のうちのいくつかが、ゆっくりと円を描いて動き出しました。すでに、海岸は制圧済であり、上陸になんら支障はない旨の合図でありました。


安宅と関船は悠々と沖合に投錨し、積み込んでいた(はしけ)を降ろして決死隊を移乗させ、次々と海岸線に向けて送り出して行きました。もちろん、その先頭に大内輝弘がいます。最初の艀が勢いよく砂浜に乗り上げ、兵がふたり、迅速な動きで波打ち際へ飛び降り、濡れた砂浜へ杭を打ちつけ、(もやい)綱を結びつけて艀を固定しました。


輝弘は、あの懐かしい山口へと続く陸地の黒い影を眺め、胸いっぱいに磯の香りを吸いました。そして、胸から下がる銀鎖のロザリオを握り締めました。


長い、あまりにも長い雌伏の時を越え、彼はいま、人の世と神の世のすべての祝福を受けつつ、失われた時を取り戻しに、あの町へと戻りつつあります。あれほど遠く、あれほど強固だった山口への海の扉は、いとも簡単にするすると開かれました。そう・・・あたかもモーゼの眼前で、ふたつに割れた紅海の波濤のように。


そして輝弘の周囲を取り囲む、地上において無二の勇者たち。我ら一丸となりて当たらば、必ず事は成る。毛利の邪兵どもなど、何ほどのことかあらん!


そしてあの・・・(きよ)き、美しき忘れ物を、自分は取りに戻るのだ。




氷上太郎は、船べりに足をかけ、かたわらに控えた自分の息子のほうを振り返りました。大内武弘にとって、海を渡るのは初めてのことです。彼は、目を輝かせてかなたの山影を望見し、そして、父親の顔を見ました。


太郎は、彼にこう呼びかけました。

「さあ、お主のまだ見ぬ弟に。そして新たなる母に・・・会いに参ろうぞ。」


言い終わると、船底を蹴りつけ、ざんぶと飛沫を立てて、(みぎわ)へと躍り出て行ったのでございます。

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