第十九章 渡海 (3)
「いや、有り体に言おうぞ。彼奴は以前にも、異人どもまで引き連れて母上に舞うことを強いた。幼き頃、母上に恥をかかされ、それ以降ずっとそのことを根に持っておるそうじゃ。それだけではない、彼奴は、きっと、母上に懸想しておる。」
「なんと!」
これには、その本人である局が驚きの声を上げました。
「汚らわしきことを!市川殿のお役目のため、また山口の庶人に糧を与うるため、あのような奴ばらとも口をきいておる。が、斯様な辱めまで受ける謂れは無いぞよ!」
「母上、これは、あくまで拙者の考えしこと。まだそうと決まったわけではござらぬ。しかしながら、余りにも怪しいのは、あの男。」
「拙者、若のお考えに同意いたしかねる。」
左座は、刀の鞘を両手で抱え込んだまま眉根を寄せて、
「なんの、得にもならぬこと。あのような手合は、常に、いとわかり易き理で動き申す。すなわち、利となるかどうか。それだけでござる。今回は、その理に適合わぬ。」
「なんと申すか、ざざ。まるであの男のために弁じておるかのようじゃ。」
「左様な積りはございませぬ。拙者とて、あの男は好まぬ。」
「では。」
「なりませぬ。」
左座は、そのまま元興を引っ立てに行こうとする元教様の胸を、黒く日焼けした手で、ばしんと押さえました。
「軽挙でござる。しばらく、今しばらく。」
元教様の眼を、正面から見据えて、断固として止めました。もちろん、格が上なのは元教様ですが、まだいかんせん若すぎます。市川殿の留守中、この家内の安全を仕切るのは、左座の仕事でございました。
「母上を想うそのお気持ちは、わかります。しかしながら、まだ今は自重あるべし。もう少し、理由を偵知してから行動を起こすべきでござる。」
その威厳の前に、元教様の気勢が削がれました。力なく後ろに数歩下がると、大きなため息をひとつついて、ぷいと横を向いてしまいました。
「噂といえば。」
左座が、元教様が落ち着くのを確認してから言いました。
「さいきん、山口の辻のあちこちで、囁かれている噂がございます。穏やかならぬ、誠にけしからぬ噂でございます。」
「それは、なんじゃ?」
局が聞くと、左座は、少し言いにくそうに答えました。
「黙っておりましたが、この際でござる。あくまで、ここ数日、流れておるという噂でございます。殿が・・・市川経好様が、戦場にて身罷られたと。」
「なんだと!」
元教様が、また激発して身を乗り出してきました。
「ただ、そういう噂が廻っているというだけのこと。」
左座は、若武者を、窘めるように言いました。
「遠く筑前、肥前の戦場の様子が、町の小商人や童どもなどに、わかるわけがござるまい。もし本当に殿が身罷られていたら、いの一番に、早馬がこの屋敷をめがけて、飛んで来るはず。」
そして、局のほうを向いて、言葉を続けました。
「身罷られたという理由が、病なのか討死か、それすら明らかならず。これは、ただの噂でござる。ご安心めされい。しかしながら、斯様な噂が廻ること。そのことこそ、われらがいま、もっとも怪しむべきでございます。」
局は、左座に尋ねました。
「怪しむべきこと・・・なにかの詐略か?」
「いかにも。花の事といい、この妙な噂といい、誰かが、何かの意図をもって致したることでござる。」
「誰が?なんのために?」
「そこまでは、拙者にもわかり申さぬ。しかしながら、若も薄々お感じになられているように、あまり良き事の兆しとは、拙者にも思えませぬな。」
「なにか、起こる前触れであろうか?」
「さよう。なにかが起こる兆しでござる。おそらくは、なにか良からぬことの。」
左座は、刀の鞘を抱え込み、顎を上げて、どこか遠くの方を見ておりました。




