第十九章 渡海 (2)
その頃、山口の市川邸では、あの奇妙な一件の下手人が、市川局の前に引き出され、ことの顛末を問い質されておりました。
左座宗右衛門は、珍しく動揺した様子の局に呼ばれて経緯を聞き、すぐと家の門を閉ざして家中の皆を集め厳しく詮議しました。その傍らには、十四歳の元教様が控え、険しい顔で家中の皆を睨みつけております。花を拾った太郎様も、はじめその場におりましたが、やがて、凍りついたような空気に怯え、奥にいる弟のもとへ逃げて行ってしまいました。
太郎様が去るのを見計らったように、おずおずと進み出たのが、おたきという名の、最近雇い入れたばかりの下女でした。小さな丸顔に長い束ね髪の目立つ美しい娘で、あらゆる雑用をそつなくこなし、人柄も朗らかで、特に下の子二人によく懐かれていたため、家中では重宝されておりました。
おたきは、日頃の笑顔をどこかに置き忘れたかのような強張った顔で、涙ながらにこう説明しました。数日前、家の前で見知らぬ旅の僧に呼び止められ、多少の銭を渡され、この花を奥座敷に置いておくように言われたと。僧は市川家に馴染みの者で、奥方を驚かせ喜ばせたいがための悪戯で他意はないとのこと。その花がとにかく美しく、なんら害はないと思われたため、おたきは言われるがままそれを畳に落として素知らぬ顔をしていたのだ、と。
おたきが語るその僧の容貌は、あの氷上太郎とは全くの別人です。市川局と左座は、顔を見合わせました。氷上は、いったい、何を目論んでいるのでしょう。勿忘草の花を置くということは、彼がまだ、かな様、すなわち市川局のことを諦めていないことを示しています。しかし、十二年もの時を隔て、なんの音沙汰も無かった男が突然戻り、しかもこのような思わせぶりな悪戯をするのは、とにかく不審です。
おたきは、ひたすら頭を擦りつけ、平身低頭して詫び言を申します。彼女としては、これほどの大事になるとは想像もしていなかったのでありましょう。局は、今回の軽挙を叱った上で、日頃の精勤ぶりに免じておたきを赦し、引き続き市川家に仕えることを認めました。おたきはその場で泣き崩れ、なんども頭を下げながら、他の下女どもに肩を抱かれて退がって行きました。
元教様は、みずからの父が市川経好ではないことを、すでに知っております。隠し事を好まぬ母が、まだ幼いうちにそのことをきちんと伝えていたのでございます。彼は言いました。
「母上、これは、本当に氷上の仕業でありましょうか。」
元教様は、敢えて自分の本当の父親のことを、氷上と呼び捨てにしました。
「氷上の名を借りた、別の何者かが、母上のお心を乱すために行うた嫌がらせではないでしょうか。」
「嫌がらせ、とは、何のためでござる?」
横から左座が尋ねました。
「おそらく、なにか商売上の損得でもあり、山口奉行に恨みを持つ者がおったのじゃ。たとえば・・・あの林泉軒。」
林泉軒とは、山内元興が名乗っている雅号です。このところ彼は、いっぱしの風流人を気取って、山口につどう貴族や高僧、高位の武家などと雅な交流を楽しんでおりましたが、もちろんそのすべては、あくまでもさらなる利得の追求のための便法であるに過ぎません。
「林泉軒が、なぜ局に恨みを持つのでございます?彼奴は、むしろ市川家と結び、利用して、日々大きな利を貪っておることは、周知の事実。」
左座は、冷静にそう反駁します。
元興が、表向き毛利の御用商人として数多くの鉄砲や武具などを用立てし、特にこのような戦時に大儲けしておることは、この山口で知らぬ者とてありません。
「いや、あの男には、とかくの噂がある。いろいろと裏の顔を持つ食わせ者じゃ。最近では、敵にも武器を横流ししておるという話すら聞くぞ。」
「彼奴に、とかくの噂があることは拙者も承知してござる。しかしながら、利に聡く無駄なことを好まぬ彼奴のような商人が、斯様な手の混んだ悪戯を、なぜ、今さら。」




