第十九章 渡海 (1)
大内輝弘、すなわちかつての氷上太郎には、相愛の頃、かな様に伏せていた秘密がございました。山口に渡る前、早々に死別した妻があり、一子をもうけていたのでございます。密命を帯び、その時は山口に骨を埋めるつもりであった氷上は、豊後に帰ることなど考えておらず、自分と同じく吉岡長増に引き取られた我が子の顔も忘れるように努めていたのですが、この子も長じて廿歳を越え、今回の父の壮挙に加わっておりました。諱を武弘と称します。
武弘は、積年の父に対する思いを現す機会を得たことを喜び、若さに任せてあちこち走り廻り、準備に余念がございません。子を持つのは、幸せなことだ。輝弘は思いました。そして、今は別の父のもとで育っている、もう一人のわが子のことを想いました。その子の名は、元教。父と母の血を享け、才豊かで眉目秀麗な若武者に育っていることを、輝弘はすでに知っておりました。
海を押し渡り、敵の本拠地に殴り込みをかけようとしている決死隊は、一千ほどの兵によって編成されております。
その技倆については、戦闘経験がある者と無い者との差が激しく、皆が皆、精兵というわけではありません。しかしその士気は旺んでした。かつて山口に住んでいたことのある者、周防長門に縁者が居る者、毛利家に恨みを持つ者、かつての大内家に多大なる恩義を感じている者・・・理由や背景はさまざまでしたが、みな、それぞれ強く思うところあってこの壮挙に志願しています。全員が生還を期していないということでは一致しており、この点では、なんら恐れるもののない、堅忍不抜な兵たちの集団であると言えました。
しかし、いくらなんでも、一千ばかりの兵力だけで敵地深く乗り込むのは無謀の極み。彼らを支援し、ひいてはその軍に加わるべく、現地周辺に、旧大内家の家臣団を中核とした毛利氏への抵抗組織が形作られておりました。すでに密やかに豊後とのあいだを行き来していた細作や諜者たちが、時間をかけて彼らを焚き付け、武具を与え、巧みに煽っては一揆化していたのでございます。
輝弘軍が秋穂浦付近に船を寄せる頃合いで彼らが蜂起し、海岸近くの警備兵を襲い上陸を助け、軍勢に加わります。おそらく、あわせると総勢三千にはなりましょう。同時に各地の郷村へ触れを出し、さらに軍勢を募ります。あとは堂々と隊伍を組み、大内氏の紋を押し立てて山口へと進軍し、道々、これが大内遺児の復仇戦であることを触れて廻れば、さらに多くの加勢を得ることもできるでしょう。
あくまで机上の目論見であるに過ぎませんが、この策が奏功すれば、毛利氏を震撼させるに足る軍勢が、無防備な戦線の後背地に、突如、出現することとなります。
数年前、多額の金品を散じて、将軍足利義輝公から下字の偏諱を受けたのは、もとは氷上太郎と名乗っていた大内輝弘が、正統な大内氏の跡取りであるということを足利将軍府に公式に認定させる意味合いがあったのです。これは、現地で旧大内氏の遺臣どもを糾合するのに好都合な、またとないお墨付きとなることでありましょう。吉岡長増の、常に先の先を読む謀臣としての真骨頂、極めて周到な布石と言うべきでありました。