第十八章 勿忘草 (5)
そんな、ある日のこと。
次男の太郎様が、邸内、奥座敷の畳の上になにかが落ちているのを見つけ、それを拾って片手の指でくるくると弄びながら、廊下を歩いておりました。
向こうから、母がやってきました。太郎様は、いつもどおり、にっこりと笑って一礼し、母のもとに近づきます。
歳を重ねてもなお美しい、市川局の眉がさっと曇り、その眼が、信じられないというような光を湛えて、太郎様が手に持つものを見ました。母は、尋ねました。
「太郎。それを、どこから持って参った?」
「奥の座敷に、落ちておりました。とても綺麗なので、捨てられずこうして手に持っておりまする。」
「座敷か・・・邸内か?」
母の口調は、いつもと変わって刺々しく、詰問調でございます。
「は、はい。」
事情のわからぬ太郎様は、ややたじろぎながら、そう答えます。
母は、しばらく、凝とそれを見ながら、なにごとか考えておりましたが、ふと思いついたように眼を上げ、後ろに附いてきていた侍女に向け命じました。
「ざざを・・・ざざを呼べ。早う、呼べ。」
太郎様の眼にも、母が、激しく動揺していることが、よくわかります。
お優しい太郎様は、母にどうしたのか尋ねました。日頃はあり得ない、母のただならぬ様子が、なんとなく、恐ろしくなったのです。
しかし、母は、やはりいつもの母でございました。市川局は、我が子の声を聞くと、はっと我に返り、にっこりと笑って手を広げ、太郎様を抱きしめました。そして、太郎様の頭を愛しそうに撫ぜながら、こう言いました。
「いや、心配は要らぬ。すまないのう、すまないのう。ちょっとした考えごとじゃ。いま、ざざが来る。ざざと少し話せば、すぐと気は晴れる。心配は、要らぬぞえ。」
太郎様は、そんな母の言葉を聞いて、少しだけ安心しました。そしてそのまま、芳しい母の肌の香りを嗅ぎ、柔らかな胸元の肉に頬を預け、うっとりとして身を任せました。母は、ずっと、太郎様の頭を撫ぜ続けました。太郎様の手が、母の腰に巻きつき、その手が開いて、それまで持っていた美しいものが、はらりと板廊の上に落ちました。
短い茎に、黄色い芯がつき、そのまわりを五枚の蒼い大きな花弁が取り巻いております。誰も見たことのないような鮮やかで、美しい花でした。
しかし、市川局は、その花のことを知っておりました。南蛮の花で、かつてこの邸宅にやって来た異人に鉢ごと献じられたことがございます。世話が難しく、そのあとすぐと枯れてしまいましたが、いつまでも胸のうちに残る美しさを湛えた花でございました。
その名は、勿忘草。かつて、想いびとのため川辺に降りて花を摘もうとした南蛮の騎士が、そのまま足を滑らせて落ち、溺れ、ただ自分のことを忘れないでくれと叫んで虚しく岸辺に投げたという謂れを持つ花で、もともと、この日の本には無いものでございます。
なぜ、斯様なものが、邸内の奥座敷に落ちていたのでございましょう。局は、愛しい我が子を抱きながら、灼けつくような胸騒ぎを覚えました。
あの男しかいない。
あの男だけだ。
あの男が、還って来たのだ。
局の頬を、つと、涙がつたいました。涙はそのまま顔を流れ落ち、その下で胸に顔を埋める我が子の髪へと落ちていきました。
それがなんの涙であるのか、市川局には、全くわかりませんでした。




