第二章 激情 (2)
ほどなく、義隆公のお気に入りとなった美しいおさい様は、そのまま第一の側室として遇されることになりました。
先妻の上臈が、その仕えていた先妻を追い落とし、側室とはいえみずから後釜に収まったのです。当然のこと、家中ではどこに行ってもおさい様を良く言う者はおりません。本来、おさい様は義隆公の獣欲の犠牲者のはずなのですが、斯様な加害と被害の順など、人々の嫉妬の前ではまず、なんの意味もないことになってしまうのです。
なかには、わざとおさい様の方から義隆公を誘い、閨に誘い込んだなどと、したり顔に言い出す者まで現れる始末。おさい様は、すっかり腹の底の黒い、上臈あがりの悪女として人々に噂される身の上となってしまいました。
そうした成り行きについて、当のおさい様が何と思われていたのか、そのご心中までは、わたくしにはわかりかねます。しかしながら、小槻伊治殿、そしておさい様の一族が、その後、日の本一の繁栄を誇るこの大内家において、きわめて大きな影響力を持つに至ったことはまぎれもない事実。
そうなると、陰では悪しざまにけなしながら、表では笑顔でこれに近づき栄進栄達をはかる輩共が現れます。彼らは、おさい様を通じて義隆公を動かそうと図りました。すでに往年の覇気をなくし詩歌管弦に現を抜かすようになっておられた義隆公は、おさい様の頼みには全く否と言わずにすべてこれを容れ、大内家の政は、こうして古の呂后や妲己のような女子ひとりに左右される、末期的な状態に堕していってしまったのでございます。
さきほど触れましたように、こうした状況を一変させたのが、陶殿を頭に戴いた、あの謀叛でございました。父上の伊治殿は義隆公とともに大寧寺にて落命、おさい様はその寸前に一行を見捨てて別寺に逃れ、そこで髪を下ろして尼になった由にございます。
しかし、自らは助かれど、義隆公とのあいだにもうけた子は、助かりませんでした。
長子、大内義尊様はこのときまだ七歳の幼子、ひとりでは山道を歩けず、龍阿なる忠良な従者の背に負われての逃避行となりましたが、やがて発見され、山中で名もなき武士に首を取られてしまったそうでございます。死に際しても従容とし、七歳とは思えぬ、ご立派な最期だったと伝わっております。
ところが・・・悲劇はこれで終わりませんでした。
実は、おさい様には、もうひとり、義隆公とのあいだにもうけた子がおりました。
歓寿丸様という、まだ四歳にもならぬ幼子で、おそらくこのときには周囲の状況をまるで理解できなかったに相違ありませぬ。
しかしながら幸運にも、長子を討ち取ったことで満足した陶勢は、それ以上厳しく詮議せずにその場を去ったため、歓寿丸様は命を拾ったのでございます。その後、周辺の山中に、娘子のような扮装で隠れ住み、数名の忠臣がこれを支え日々の糧を得て捲土重来を期しておりましたが、翌年、舞い戻ってきた陶勢に探し出され、こんどは助からず、その幼き命を散らすこととなりました。