第十八章 勿忘草 (1)
夜も更けて参りました。私ばかり喋り続けて、はや何刻になるでしょうか。少し疲れました。水でも呑ませていただいて・・・さて、お話を続けましょう。仔細ありて、この長い長いお話を、夜明けまでには語り終えないとならないのでございます。
さて、あなた様のお許しをいただいて、お話の舞台を、しばしの間だけ、変えてみたいと思います。あまり刻がなく、ややつづめてお話しないとならないためでございます。なに、ほんの暫しの間だけのこと。またすぐと、お話を山口に、あなた様もよく知るあのお話へとお戻しいたしますから、どうか、どうか、少しだけお付き合いください。
大友宗麟公の腹心の配下に、吉岡長増という名の老人がおりました。このお話の当時、すでに齢は七十に届いており、毛利元就公とほぼ同じ世代の方でございます。彼は、若き頃より大友家を支え続けた謀臣で、先代の大友義鑑公の御代から数十年、大友家中で独自の地位を占め、いまだ矍鑠としておりました。
彼は、たったいま奥座敷の義鎮公のもとを辞し、豊後大友館の奥庭を巡る回廊を歩いているところです。義鎮公は、日頃は臼杵の新城におりますが、大友家危急の折、こちらに出てきて家臣たちと日々真剣なやり取りをしております。
時として政務や軍務を放擲して、どこぞに引き籠って居所もわからなくなったりする、子供のような困った君主でしたが、多方面にわたり天賦の才を持つ、おそるべき天才でもございました。集中しているときの思考の冴え、洞察力の鋭さは、ずいぶんと年長の吉岡も一目置くところでございます。
いま、九州に上陸してきた毛利全軍の総攻撃を受け、博多が陥ちんとしておるところ。大友帝国最大の危機に、この君主はやっと出廬 し、遅まきながらその才を存分に発揮して戦争指導に当たっております。この点は、吉岡にとって、まずはひとまずの安心材料でございました。しかしながら、戦勢大いに非なり、すでに毛利氏は立花城を完全に制圧し、博多湾の一角に取り付いて、いまは多々良浜と、そこに流れ込む多々良川の河口域の周辺で、戸次鑑連殿らの大友の全軍と、血を血で洗う大掛かりな決戦を戦っている最中でございます。
ひところ一方的に押されまくった大友勢でしたが、鑑連殿決死の突進、その他諸将の善戦敢闘と相俟って、なんとか毛利勢の勢いが止まりつつあります。
しかし、兵力、装備、士気統率の優秀さでは敵に一日の長あり、すでに鑑連殿から吉岡へ、内々に「長くは保たない」由の見通しを記した文が届いております。