第十七章 戦雲 (3)
もと内藤一族出身の山内元興は、このときすでに長じて廿代のなかばに達しておりました。やや軽忽な、武家出身とは思えぬ性格ではございましたが、商機を観ることと、利殖の才は抜きん出ておりました。そのような彼が、この山口の活況にただ手を拱いているわけがございません。
商人としての彼の非凡なところは、ただ山口に在って、そこで商いをするのに全く満足しなかったことでございます。彼は、考えました。毛利が必要とするものは、必ず、敵手となる大友も必要とする、と。そして、それらをふんだんに畿内から買い付け、内海を経由して安定供給できる毛利にひきくらべ、このところの戦乱で博多が荒れ、商人たちが別の泊や小さな湊に逃げ散ってしまった大友氏は、こうした資材を調達するのにたいへんな苦労を強いられているという報を、山内元興は、いちはやく掴んでいたのでございます。
そこで彼は、内海をふんだんに行き交う物資のうち、東の堺や国友村より毛利向けに送られてくる鉄砲や大筒、弾丸などの重要資材から一部をこっそりと間引いて、廣島の外れに儲けた隠し泊から陸揚げし、ひそかに間道を伝って陸送、いったん山口の自分の蔵へと収め、機を見て海沿いの秋穂浦から沖へ出し豊後に密送する計画を立てておりました。
そうすれば、毛利に売るときの何倍もの値段で、大友がそれを買います。これは、たいへんによい商でした。もちろん、中途、海路を警戒する村上海賊などの検問を受ければ、ことが露見し商品が船ごと拿捕される危険もございます。
しかしながら、波間をたゆたう水軍衆は、陸地の義理などに縛られる者だけとは限りませぬ。悪は悪とつながり、利は利と結び、元興はすでに、彼の意のままに豊後へと商品を送る路を啓開しておりました。
敵にも味方にも、同じ質の、同じ資材を売るのです。さすれば、両軍はおなじ武具で戦うこととなり、戦勢は膠着し、戦は長引きます。そして次の、さらなる武具の需要となるのです。毛利と大友、双方から。要するに、この戦は、そのすべてが佳い商のもとでした。
山内元興が、「有徳人」として巨額の資産を溜め込むことのできた理由は、兄の内藤隆世殿の死が大きかったように思います。元興殿十五歳のとき、隆世殿は武家の徳と義とに殉じて毛利に抗し、非業の死を遂げました。長門からもたさらされたその報に、身体の芯から震え上がった元興は、武家の中では生きられぬ己を悟り、その徳や義なる、人の身を滅ぼす忌まわしきものをひたすら憎み続けました。その後、内藤家を出、武士を棄て商人となり、武家の徳とするところを意識して踏みつけにし続けることで、ただ自らが望むまま、思うがまま自在に活動できたのでありましょう。
まこと、稀有の才を持つ、有能な男ではございました。