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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第十七章  戦雲 (1)

永禄九年末、遂に宿敵尼子を降した毛利氏は、山陰、山陽をすべて手に入れ、日の本最大の版図を持つ大々名へとのし上がりました。思えば、安芸の山間のうすら寒い盆地で、尼子と大内の二大勢力に挟まれ、まるで鼠や栗鼠(りす)が首をすくめて巣穴に籠もるがごとく年中びくびくとしていたのがほんの二十年ほど前のこと。そのうち、自家と同格の小豪族どもを悪辣な手段で次々と併呑(へいどん)、使える手はなんでも使って敵をひねり潰し、ここまでの大身になったのでございます。


そして元就公もそろそろ七十歳。想像を絶する労苦を重ねた前半生と、勝利と栄光とに満ちた後半生と。老境にある彼は、いままさに人生の絶頂に立っておるといってよいでありましょう。しかし、そんな元就公の胸中は、ただ、からっぽでした。理由はもちろん、聡明で人格優れた長子、隆元公を(うしな)ってしまったことでございます。


毛利氏後継の体制は万全であり、まずそこにはなんの懸念もございません。輝元公はまだ幼少でしたが、隆元公以上に勇敢で優秀な吉川元春殿、小早川隆景殿がこれをお支えしております。福原貞俊、宍戸隆家、口羽通良といった有能な宿老たちもうち揃い、また山口には奉行として市川経好が在り、日々しっかりと治績を挙げ、国を富ませておりました。


しかし、それでもなお、日々(うつ)ろな元就公の胸中は、晴れませんでした。もともとなにかにつけ内向きで、親しい人にもお心のうちをなかなか明かさぬご性格です。しかし、隆元公を喪った影響がことのほか大きいことは誰の眼にも明らかで、国主が斯様な鬱々(うつうつ)を抱える毛利帝国は、まるでいつまでも喪が明けぬかのように黄昏(たそが)れた空気に覆われておりました。


生涯を戦に明け暮れた老雄が、心の傷を()やす、いや、しばしその心の傷から目を背け、痛みを忘れるためにやれる、唯一の気散じ。


それはただ、次なる戦です。

新たなる征旅(せいりょ)です。


今にして思うと、毛利氏は、ただ中国を制したことで満足すべきでした。この時点で内をしっかりと固め、人心をひとつにし、東に勃興(ぼっこう)しつつあった巨大な新たなる敵に備えるべきでありました。しかし、このとき、元就公の心はただただ虚ろなままであり、その暗い大きな穴はひたすら、新たなる流血と、次の戦とを渇望していたのです。


九州にて、(にわか)に動きが(おこ)って参りました。毛利軍が門司城を拠点に北辺を抑えている筑前国で、いったんは大友氏に従うふりをしていた土豪や国人領主たちが、不穏な動向を示すようになってきたのです。彼らは、筑前にあらたな領主を迎えることを望みました。大友氏古来の掟とは違い、彼らを抑えつけず、彼らから富を奪わない、新たな秩序が打ち立てられることを望みました。


どこまでが自然に発したもので、どこからが毛利の調略だったのかは、よくわかりません。おそらく、すべてにおいて、その両方の面があったのでございましょう。


しかしともかくも、毛利氏が東方の敵を消滅させ、その大軍を自由にどこへでも投入できる余裕を得たことが、筑前にいた多くの人々の見果てぬ夢を、さらに(あお)りたてる結果となったことだけは、確かでございます。そして、そうした動きは、たまたま、毛利帝国の実質的な主である老元就公が抱えるうつろな心を、しばしのあいだ埋め合わせることのできる、いわば、薬師(くすし)の処方のようなものだったのでございます。

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