第十六章 満月 (4)
天に揚がる太陽はやがて傾き、満つる月はやがて欠けて参ります。山口に在って、たまゆらのしあわせに酔っていた市川家の者たちにも、その刻が迫っておりました。
徐々に町のかたちを成しつつあった廣島で、この突然の訃報に接した尾崎局の落胆ぶりは、それはそれは、周りが見てはおれぬほどの痛ましさであったとのことでございます。市川経好殿と局にとり、尾崎局は、二人の縁を取り持ってくれた大恩人。その後も、なにかと市川夫婦のことを気にかけては、優しいお言葉をかけてくださり、市川殿の奉行としての任の遂行に際し、それがどれほどの助けになったかわかりません。
市川局にとっても、心根の純粋さとおおらかさ、そして靭さとを持った尾崎局は、ひとりの女子として、心より敬愛できる御方でございました。しかし自らも、夫を支え、山口の町を支え、これを統べていかねばならぬ身。廣島へと一目散に駆けつけたい気持ちはありながら、いまはただ、心よりのお見舞いの手紙を草して送るくらいのことしかできません。やがて、立ち直ったと思しき尾崎局から、返事が参りました。内容は、いかにも尾崎局らしい律儀で丹念なもの。みずからを、昔の呼び名のまま「あやや」と記し、遺児の輝元公を共にもり立てていくよう、経好殿と局へ頼み、また、結びには、万感を込め市川夫婦を気遣う言葉が添えてありました。
「現し世は、いとはかなきもの。幼き子らと過ごす刻は、ただほんの、いっときだけのこと。悔やまぬように、ただ、今この時こそを大切にすること。」
夫婦は、手紙を掴み、それを胸に当てて涙にくれました。左座も、そのさまを見て、ただ粛然としておりました。
ちょうどそのころ、遠く京の竺雲恵心和尚より、このような報が山口へと届きました。
「昨年のこと、謀叛で亡くなる直前の将軍、足利義輝公の下字の偏諱を受け、大内家の遺児大内隆弘が、輝弘と改名せり。」
恵心和尚からの報はさらに続き、この偏諱はすぐと公表されず、ひそやかに執り行われたこと、またこの大内隆弘変じて輝弘なる者は、現在、豊後府内にて大友氏に保護されているということでありました。
すなわち、これは、大友氏が筋書きを書いて、京の幕府とその周辺に、おそらくは多額の金子をばら撒いてその思惑通りに買い取った「名」にほかなりません。ただし義輝公は、在世中、幕府の力を誇示するため、大友と毛利の手打ちのほか、自らの名の偏諱を多方面の大小名に対して数多く宛行うなどの行跡が目立った将軍でございます。他ならぬ、毛利輝元公の「輝」の字も同じように義輝公から与えられたものなのでございます。
なので、この偏諱は、今さら特に目立つ事柄ではございませんでした。大内輝弘がいったい何者なのか、また彼を内に飼う大友氏の狙いが何なのか、迂闊にも、このとき毛利家のなかでそのことに深く思いを致した者は、誰一人として、おりませんでした。