第十六章 満月 (3)
しかし、この間にも、毛利家にはさまざまな事件が起こっておりました。
まず、永禄六年の九月、ご当主である毛利隆元公が身罷られました。まだ四十を過ぎたばかり。働き盛りの、突然の死です。さきに大友と毛利の和議が成った際、出雲に方角を換えて出陣しようとしたさなか、備後国の国人、和智誠春殿の宿所でとつじょ苦しみ出し、そのまま頓死してしまいました。なにか悪い食物に当たられたのか、それとも、うち続く大戦と国主としての政務の疲れで御身体を人知れず悪くされておられたのか、なにかの悪い病か、それとも・・・原因は、結局、わからず終いでした。
この思いもかけぬ椿事が、毛利領国に投げかけた暗雲は、巨大なものでございました。老いたる獅子、毛利元就公の悲しみはことのほか深く、その後半生、みずからの謀と容赦なき争闘とでこの大帝国を一代で伐ち立てたといっても良い梟雄が、ただの惚けた老人のようになってしまったと漏れ聞きます。この元就公の怒りと底の知れない猜疑心は、隆元公をこのとき饗応していた地元の諸豪族たち全員に及び、その罪の不分明なるまま、彼らは次々と殺され、逐われ、国を奪われてしまいました。
有力な弟君二名は、すでに他家を継いだ後なので、そのあとを襲うことになったのは、まだ幼い隆元公の息子、毛利輝元公でございます。このとき、御年十一歳。この危機に際し、それまでともすればばらばらに動きがちであった毛利の家中は結束し、吉川元春殿、小早川隆景殿はともに甥にあたる輝元公をもり立てていくことを心の底より誓われます。
元就公は、失意のどん底にありながら、みずからの生涯の最後を飾る大事業の完成を目前にしておりました。すなわち、かつての山陰の覇者、尼子氏が本拠地と托む出雲の月山富田城を、圧倒的優勢のうちに取り囲むことに成功していたのでございます。西の敵、大友氏とは和睦という名の休戦中で、毛利は、次男元春殿の率いる精強な吉川勢はじめ、ほぼ麾下の全戦力をここに傾注することができました。また、隆景殿と亡き隆元公の働きにより、関門海峡の通交を完全に抑えていた毛利軍は、配下の水軍や海賊衆を意のままに進退させ、海からの山陰への補給路を遮断しておりました。
長いながい攻囲ののち、観念した尼子氏は、永禄九年の神無月、遂に毛利元就公に膝を屈し、月山富田城は開城されました。元就公年来の宿願が、遂に成ったのです。しかし、老雄に一切の笑顔はありませんでした。毛利が、中つ国の覇者たるを決めたこの大勝利のあと、まるで糸の切れた凧のように、彼の意識はあらぬほうへ浮き沈みし、その昔の息子の思い出を語り出しては家臣の前で泣き崩れたり、日々拝む太陽の神や、亡き正妻の名などをぶつぶつと呼び続けては、日がな一日座敷の中から出てこないなどの奇行が見られ、家中を心配させました。
遥か遠くの高嶺の花を。長年の辛苦ののち、あまたの血を流し、涙を枯らして、その花をとうとう掴み取った老雄は、そのかわり、みずからのもっとも大切な宝を喪ってしまったのでありました。あとは、ずるずると、昏き奈落へと落ち行くばかり。偉大な毛利帝国は、その絶頂を迎えると同時に、斜陽の長き下り坂を、ゆっくりと下り始めることとなるのです。