第二章 激情 (1)
やっと兵火のおさまったあと、山口の街のなかでもひときわ広壮なたたずまいを誇る内藤邸において、とある事件が起きました。
事件、といっても兵乱や人死の類ではございません。ちょっとした、なんということもない童同士の喧嘩でございます。しかし、この事件は、その後のかな様の人生に大きな影響を与える、大きな出来事と相成りました。
それは、内藤興盛殿の九歳になる末子、啓徳丸様がやんちゃの盛、このように叫び、歌いながら邸内を駆け回ったことが原因でございます。
「まらを取られた!まらを取られた!」
それを聞くと、かな様はやにわに、傍らで庭の敷石の上を掃くため下女が手にしていた箒を奪い取り、その固い竹の柄で手ひどく啓徳丸様を打擲し、殿上から庭にはたき落として、なおかつ逃げる相手を庭じゅう追いかけまわし、その背中を突く、という挙に出たのでございます。啓徳丸様は転び、痣と打身、切傷だらけとなり、身を捩りながら声を限りに泣き叫びました。
びっくりした家中の人間がこの事件が起こった中庭に駆けつけてまいりましたが、かな様は、そのような中でも慌てず騒がず。なおも泣き叫ぶ啓徳丸様の背を素足で踏みつけにして、このように説諭したそうでございます。
「幼子の無念の死を嗤うか。そちも武家の子なら、死に際し辱められた幼子と、その母の想いを知れ。」
この件には、多少の説明が要るかと思われます。
亡き大内義隆公のもとには、都から大勢の公家衆が下向し、大内邸や山口の町のなかで寄食していたことはすでに述べました。そのなかには、ほんのいっとき、都の有職故実の香りを運んで有難がられ、いくばくか包まれるお礼や金子を目当てにしておる者もおれば、あるいは戦乱に焼け落ちた京の都に見切りをつけ、この新たに興った西の商都に未来を賭けた人士もおりました。
小槻伊治殿も、そのお一人。都で万里小路家にお使えする謹直な官務家でありましたが、朝廷に過日の勢威なく、小槻家もその日の衣食にすら事欠くありさま。やがて、そうした朝廷の窮状を打開すべく、万里小路家から貞子様が西へと下り、義隆公の正室として嫁すこととなったのです。伊治殿もそれに随行し、みずから培った都の条々やしきたりに関する知識を活かして、大内家に重用される身の上となりました。
また、伊治殿には、おさい、という美しい娘子がおり、万里小路貞子様の上臈としてお側近くに使えておりました。しかしながらある日、おさいに懸想した義隆公が、その荒淫の悪癖をむき出しにしてこれを犯し、ために、これを知った貞子様との間に隙間風が吹くようになったのです。
隙間風が吹き込んだのは、貞子様と、上臈のおさい様の間も同じこと。高位の公家の娘として、富貴といえど所詮は田舎侍に過ぎない義隆公に屈辱を加えられたと憤った貞子様は、我慢がならず、ほどなく婚姻を解消して都へとお戻りになってしまいました。そしてもちろん、帰洛の一行に、おさい様と伊治殿の姿は含まれておらなかったのでございます。