第十六章 満月 (2)
男の子三人は、まだ幼い時から日々、市川邸の中庭で、左座宗右衛門から厳しく武芸を躾けられました。戦のなかで産まれ落ち、戦のなかで育ってきたようなこの古木のような男は、繁栄を続ける山口において、大してやるべきことがございません。もと大友家の武士であることから、その大友と戦う門司や筑前での戦役に加わることも憚られました。よって左座は、おそらくは彼の人生でもはじめての無聊をかこつ事となり、その有り余る情熱を、三人の幼子に対する日々の鍛錬へと向けたのです。
左座は、素晴らしい武芸の師でした。刀槍の術、弓馬の術のすべてに優れ、またいつの間に身につけたものか、鉄砲の撃ち方にも長じておりました。口数は極めて少なく、笑顔で幼児の機嫌を取り結ぶようなことも致しません。しかしながら気難しいという訳でもなく、その内に持つ人としての優しさのようなものが、ただじんわりと、子どもたちを包むのです。教えは烈しく厳しいのですが、左座と接するとき、子どもたちはなにかこの上ない安心を感じ、左座という名の覆いに包まれたような気分がするようでございました。
そのうち、武芸のみでなく、左座は彼の知る唯一の雅びごと、すなわち舞を子らに授けるようになりました。中庭に面した奥座敷の廊下を能舞台に見立て、扇を持った左座が、ゆったりと、優雅に摺り足で舞を披露します。幼き子らも、見よう見まねで挑みますが、もちろん、まだまだ拙いものでございます。経好殿と局は、そんな子らの初々しき芸を、座敷に座り、笑いながら眺めます。
雅びごとといっても、教えるのは左座です。それは厳しい武芸の鍛錬と同じでした。左座の扇の動きにならって、満月丸様と太郎様の扇がひらひらと、流れるように宙を動きます。しかし、兄二人のようにはうまく舞えず、半分べそをかいた徳丸様が、左座に対してむずかり始めました。左座はそれをまったく相手にせず、兄二人を従えて摺り足で廊を滑るように動き始めました。
ひとり取り残された徳丸様は、とうとう、声をあげて泣き始めました。
「これこれ、徳丸が泣いておろうぞ。ざざ、少しは優しくしてやってくりゃれ。」
局が、微笑みながら左座に頼むと、
「御子をいったんお預かりした以上、御方様のお言葉であろうと、左座は聞く耳持ちませぬ。舞も戦でござる。この廊も座敷も、いわば戦場。戦場で、戦うことを止め、泣いてしまわれては、あとは敵手の槍の錆となるばかり。」
左座は、局の言葉も聞き入れず、厳しく言い返します。
それを聞いて徳丸様は、いっそう烈しく泣き出しました。すぐ横にいる太郎様が、そんな弟のさまを見て、やや動揺しはじめます。
そのとき、満月丸様が、徳丸様にそっと、声をかけました。
「徳丸、ここは戦場。敵はあの、憎っくき左座宗右衛門じゃ。じゃが、敵は豪傑、おぬしだけではまだ手に余る。かくなる上は、援軍を頼め。」
徳丸様は、泣きながら、きょとんとして兄の方を見上げます。
満月丸様は、言いました。
「母じゃ。おぬしの母じゃ。母上は、かつて左座をも凌ぐ舞の名手であった。いまはあそこで、ゆるりとしてなさるが、本当はお主を助け、おぬしと舞いたいのじゃ。だが、お主が援軍を頼めば、きっと戦場にも出てきてくれようぞ!」
その機転に満ちた言葉に勇気を取り戻した徳丸様は、眼を輝かせて、座敷の奥に向かって叫びました。
「母上!」
市川局が、夫と眼を合わせてから、少し笑い、ゆっくりと立ち上がりました。
そのとき、素っ頓狂な大声が廊下から響きました。
「あな、おそろしや!かつて、安芸きっての聞かん気の姫と怖れられたあの御方が、起ちなさる。はよう逃げなば、箒で背中を突かれるぞ!おそろしや、おそろしや・・・今日の稽古は、これにて御仕舞い!」
なんと、あの堅物の左座が、扇を放り出し、そう叫んで逃げていくのです。
みな、呆気にとられてしまいました。
いったん姿を消した左座でしたが、やがて、おどけた仕草で戻ってきてから扇を拾い、その先ではっしと満月丸様のほうを指し、
「若君、日頼様にも劣らぬ恐るべき謀、お見事!左座軍は、きょうは負けて退散つかまつる!」
そう言い捨てて、今度は、本当に消えてしまいました。
市川の一家は、顔を見合わせ、やがて、皆で腰が抜けるほど大笑いしました。まだ幼い徳丸さまは、おそらく、話を半分もわかっていなかったでありましょうが、それでも、べそをかきながら太郎様と並び、大口開けて、けたけたと笑っておりました。
しあわせな刻が、流れていきました。




