第十六章 満月 (1)
永禄七年、足利将軍家の仲介により大友氏と毛利氏との和議が成ったことで、山口の平和は保たれました。そして、前にも増して大きな商機が次々と訪れ、町にさらなる繁栄を齎すこととなったのです。西方の博多からの物資が、関門海峡を通って大量に流れ込み、毛利領内を通って堺や京へと中継され、内海商人をはじめ、その物流に関わるすべての者どもを富ませました。
特にこのところは、畿内や美濃、東国に広がるあまたの戦のため、石火矢ないし鉄砲と呼ばれる南蛮渡来の飛び道具が、泉州堺や近江の国友村などで大いに製造されるようになりました。それらは質がきわめて良く、舶来品に較べて価格も安いため、逆に西国大名から買い付けられ、内海を逆に還流して参るほどになりました。
しかし、泉州や近江では、絶対に手にできないものがございました。
鉄砲には、そこから弾丸を打ち出すための火薬が必要であり、その調製には、硝石なる物資が必須になります。これは、極度に乾燥した土地で、鼠や鳥などの糞が乾いた土に混じり長年月のうちに変じてできるもの。湿気の多い日の本では多くは産し得ず、やむなく明や南蛮から買い付けるしかないものでございます。硝石無ければ火薬は作れず、火薬が無ければ、鉄砲はただの役に立たぬ長筒に過ぎません。
すなわち、博多から内海を通じ、畿内へと至る硝石の流入通路を押さえる毛利氏は、西に居ながら、東国の浮沈を左右し得る手綱を手にしていたも同然であったのです。東国大名たちは、堺の商人を通じ、先を争って大量の硝石を買い付けようとしました。その値は上がり、注文は膨大な量となり、商人どもは肥え太りました。
もちろん、その冥加は毛利領国をも潤し、西の拠点である山口も、以前にも増して殷賑を極め、繁栄を続けることができたのです。
この満ち足りた数年間、市川局の三人のお子様は、健やかに成長をとげておりました。
長子の満月丸様は、もちろん、氷上太郎との間にできた御子でございます。もちろん世間に対してその事情は伏せられ、表向きは市川経好と早々に成した子ということになってございました。古くからの山口の町雀どもはそのあたりの事情をよく知っております。しかし、このような男女の間の間違いや、いかにも態とらしい糊塗のしかたは、当時の武家や商家には、実は、よくあったことでございます。
もともと当たり前であったことに加え、その後の、山口奉行としての市川経好殿の精勤ぶりや公正な統治に人望が集まり、わけても、山口が富み栄え人々に日々の糧がまんべんなく行き渡っていたことで、こうした口さがない噂話などは、さほどの広まりを見せることなく、そのうち、山口の町へ新たにどんどんと他所から人が入り込んで来るとともに、自然と立ち消えてしまいました。
満月、というその思わせぶりな幼名は、もちろん、市川局が付けたものではございません。夫の市川経好が、多分に戯れた気分をもって、いとも気軽に名付けたものでございます。彼としては、事を敢えてすげなく扱うことにより、局のお心の負担を少しでも減らそうとしたものでありましょう。局のほうも、夫のその心遣いに感謝し、また、名付け方とは裏腹な、満月丸様に対する経好殿の情愛溢れた日々の接し方に心からの安堵を感じていたのでございます。
満月丸様は、実の父親に似て、凛々しく涼やかなお顔立ち。さほど活発な子ではございませんが、思慮深く、ものごとを丁寧にひとつひとつ極めようとする性質がございました。周囲の者どもに対するお優しい接し方などは、日頃の局に瓜二つ。ただ、常になにかを考え込んでいるご様子で、母親と違い、あまり自らの烈しい感情をあらわにすることはございませんでした。
下のふたり、すなわち市川経好殿との間に成したお子も、いずれも男の子。次男は、なんと、太郎という御名でございます。これは将来、満月丸さまから長子の座を奪うという意味を込めているように思えますが、そうではございません。ただ単に、両親のあいだを結びつけた尾崎局の発案により、彼女の夫、すなわち現在の毛利家の当主、毛利隆元公の幼名にちなんで与えられたものでございます。
三男には、徳丸という御名がつけられました。これは、毛利家の三男で、家内きっての明智の持ち主との令名高い小早川隆景殿の幼名にあやかってつけられた名でございます。敢えて次男の吉川元春殿にちなんだものでなかったところには、もとは安芸吉川の一族であった夫と、その有力な家臣の出である妻の、やや複雑微妙な思いが反映されていたかもしれません。
ともあれ、下の子ふたりも、実の父親に似て素直で温厚篤実な気質であり、満月丸様との仲も良く、一家はこの上ない朗らかな毎日を過ごしていたのでございます。