第十四章 異国の舞 (4)
もはや、明らかなこと。これは山内元興の、いわば八年越しの復讐であったのです。彼は、かな様に箒でしたたかに打ち据えられ、家内の、そして山口じゅうの笑いものになった過去を、決して忘れておりませんでした。そして、捲土重来、この表敬訪問の席で自ら異国の舞を演じ、市川局に、その返礼をせざるを得ないように仕向けたのでございます。
もちろん、元興の望む舞とは、その昔、氷上太郎がかな様に授けた舞のこと。あの「采女」です。彼は、その舞を夫の前で舞わせることによって、氷上を、かな様を、そしてふたりの間にできた子供を、現在の夫である市川殿とともに侮辱しようと謀を巡らしたのです。しかも、公には、その辱めのことを、市川局は誰に対しても訴えることはできません。
山内元興は、いまや、内海きっての大商人となった自らの力を、いささか過信していたようでございます。
この元興との縁を取り結ぶため、あの、かつて自分に中庭で恥辱を与えた宮庄の居候、「聞かん気の姫」が、手もなく屈服し、仕方なしに采女を舞うと思ったのでありましょう。あるいは、その恥辱に耐え切れず、いつもの激情を波打たせて、ふたたびなにか粗相を働いてしまうのも面白いと考えていたのかもしれません。
まこと、さもしく、卑しい心根の男でございました。
市川局は、あの昏い激情が胸の内に兆すのを、ひたすら耐え、悠然と元興を見返しました。その美しいお顔には、笑みすら浮かんでおりました。
鋭い市川殿は、ふたりの間の、ただならぬ視線のやり取りを膚で感じ取りましたが、細かい事情がわからず黙っておりました。
すると、やにわに、局が市川殿の脇を通り抜け、その手にした硝子の盃を奪い取ると、歩みながら天井を見上げ、一気に呷りました。そして、茫然とした元興の手から先ほどの扇を取り上げ、空になった盃を押し付けると、その扇を開き、満座の列席者たちを見渡して、こう言ったのでございます。
「妾、いささか舞に心得あり。されど、ここに鼓なく笛もなし。さらには板敷の能舞台もなし。よって、いささか異例なれど、先の黒いお膚の御方に南蛮の笛をいまいちど奏していただき、ただ心のまま舞って、返礼としたく思いまする。それにて如何?啓徳丸殿。」
意図して、元興をかつての幼名で呼びつけました。意外な成り行きに驚き、口をあんぐりと開けた元興は、仕方なしに、かな様の望むまま、異国の言葉でなにごとかを命じ、後ろに下がった黒人の笛吹きにふたたび、楽を奏させました。
市川局は、さきの異人三名の合奏の際、音の重なりと音数の多さから、これに合わせて舞うことは無理だと見当をつけておりました。しかし、あの縦笛だけなら、吹き手が少し考え、ゆっくりと吹いてくれれば、その場でそれに合わせて舞うことができる、そう考えておられたのです。
まことに、非凡なる姫、いや局でございました。
市川局は扇を開き、昔、氷上太郎に習ったとおりの、腰を落とした足摺の動きで、ゆるりと舞い始めました。黒人の笛吹きは、かな様の期待したとおり機転の利く男でした。局の動きを見、それに合わせて、わざとゆっくりとした楽を奏し始めました。
日ノ本と南蛮。まったく違うふたつの文化が、とある男のつまらぬ奸計をあざわらうかのように絡み合い、溶け合いました。市川局が舞うのは、氷上が山口を去って以来、初めてのこと。その見事さと美しさに、夫の市川経好殿は、しばし時の経つのを忘れ見入っておりました。異国の調べにまかせて、局は宙をたゆたい、人々の弥栄を寿ぎ、豊後に去った氷上と、いま自分とともに歩む夫とを同時に想いました。涙が、じんわりと滲んできました。
公式には、この山内元興の市川邸への訪問は、大成功と記録されております。山内の豊富な資金力は、ますます山口の町と深く結びつき、奉行の市川経好殿は、この内海商人との結びつきをますます強固なものにして、毛利家の経済的な実力を押し上げることに寄与して参ったのでございます。
訪問後、市川局から、そのお言葉のとおり、楽を奏した南蛮人三名に褒美が渡されました。三名いずれもが高価な京菓子を賜り、膚の赤い二人には、大きめに誂えられた裃が与えられました。そして、局と息の合った楽を奏した、あの膚の黒い男には、特に刀剣と、局が元興から奪い取って舞う際に使った、あの美麗な扇とが与えられたそうにございます。