第十三章 初夜 (5)
はっと我に返った経好殿は、
「あ、いや」と生返事し、少し伸びをしてから、ふと思い出したように言いました。
「そうであった。あのこと、申しておかねばの。」
「何事でございます?」
「吉川の一件じゃ。」
それは、かな様の心に、またこの婚儀に関わる市川家、内藤家、宮庄家すべての者の心にも、小さな棘のように刺さった微妙な事柄でございました。かつて、毛利家が強引に次男を後継者として送り込み、それに抗した者共を、当主の興経殿ともども葬り去ってしまった、あの話でございます。宮庄家は、あのとき毛利に抵抗して安芸を逐われ、以降、かな様の試練が始まったのでございます。
この晴れの日に、決して触れてはならぬこと。祝言の席においても、市川家の誰もが意識しつつ、皆が避けて通っていた話題でございます。
それを、経好殿は、いとも気安く口にしました。さり気なく、口ぶりが軽すぎて、さすがのかな様も、身構える暇すらございません。おそらく、経好殿の得意とする対人折衝の術だったのでございましょう。彼は、勇武の人物ではないが優れた内政官であり、また交渉の上手だという毛利家中の評判を、かな様はすでに耳にしておりました。
人の心のなかに、するりと入り込み、そして人の心にささくれを立てずに、話すべき事柄だけ、するりと伝えてしまうのです。かな様は、目の前に居る自分の夫が、人の良さげな只の男ではないことをあらためて意識しました。誇らしいようでもあり、また少し恐ろしいようでもあり。少なくとも、これまでに見てきた男たちのなかで、このような類の者はおりませんでした。
経好殿は、語り出しました。
「知って、おるかの?儂はもともと、吉川家の生まれじゃ。」
「存じませんでしたが、あやや様が、以前、そうと仰られておりました。」
「詳しい経緯は、知るまい。表向きには、毛利家中でも伏せられている話じゃ。」
「吉川家の・・・いずこの方のお子でございます?」
「吉川経世。それが、わが父じゃ。亡き興経様の実の弟よ。毛利が、吉川家中に手を伸ばし元春殿を送り込もうと画策したとき、その話に乗った。」
「なんと!」
「すなわち、その後おぬしと、宮庄を安芸から逐うたことの責任の一端は、儂の父にもある。だが・・・尾崎局も言われていたとおり、あのとき、毛利には毛利の、やむにやまれぬ事情があった。」
「は、はい・・・それは存じております。」
かな様も、不承不承、頷きました。
「吉川家のほうに、外敵につけ込まれるだけの脆さがあったのも、確か。」
「はい。」
「しかしそれでも、儂は、みずからの父の行いが赦せなかった。若かったせいもあるがの。筋が通らないと思うた。それで父に抗し、義絶してしもうた。」
「親子の縁を?」
「そう、切った。一方的にそのこと伝え、自ら、本貫の地に引き籠った。」
「そして、どうなられたのでございます?」
「数年、隠棲しておったかの・・・しかし、なんといっても、まだ若い。意地を張るも長くは続かず、毛利家からの招請に応じ、姓だけを変え、仕えることになった。意地を張り通した宮庄の義に比して、まこと、情けなき次第じゃの。」
「しかしそれでも、ご立派なことでございます。あのとき・・・」
「そう、あのとき、皆が皆、一斉に毛利へ靡いたの。」
経好殿が淋しそうに笑いました。この男は、こちらの意識のつねに一歩先に廻り、こちらの言いにくいことや、あるいは、心の襞にじんわり染み込むような一言を返してきます。
「意地を張ったのは、宮庄と、ほんの少しだけじゃが、儂だけじゃ。あと意地を張った者どもは、みんな、死んでしもうた。」
また、笑いました。今度は、かな様も一緒に笑いました。
「その、意地を張った者同士。生き残って、いま山口に、共に居る。打ち続く戦乱で、焼け野原となったこの町にの。ここを復興し、そこに住まう者の心に、この灯明のような、明かりを灯したい。それが、儂の望むことじゃ。それを、一緒にやってくれる者が要る。宮庄の、聞かん気の姫じゃ。儂の、美しい嬶さまじゃ。」
経好殿は、そこで黙りました。そして、かな様を真正面から見つめました。かな様も、経好殿を見つめ返しました。経好殿は、優しく手を差し伸べ、かな様を床へと導いてゆき、二人はその夜、夫婦となったのでございます。