第十三章 初夜 (4)
やがて輿列は市川邸の門前へと至り、そこで武家のしきたり通り、請渡しの儀式が行われました。口上を述べ終わった隆春殿はじめ内藤家の面々は、丁寧にお辞儀をし、夜道を戻っていきました。すると、輿は邸への敷居を跨ぎ、そこでいったん、ゆっくりと地面に降ろされました。市川家の者が近寄って口上を申し述べ、輿を担ぐと、そのまま一気に屋敷の中に担ぎ入れました。
かな様は、市川一族の老女に手を引かれ、直接、輿から廊下に降りると、導かれるまま、屋敷の奥へと歩んで参ります。やがて祝言の間に至り、座につくと、そこにはすでに白一色の装束に身を包んだ市川経好殿と、一族縁者たち数十名が、ずらりと並んで待っておりました。
花嫁が着座すると、時を置かず三献の儀式となります。初献、二献、三献と、一座に盃がまわるたび、雑煮、饅頭、吸物という順で、違った肴が出されます。数刻ばかり祝言と歓談となり、市川の縁者たちは笑いさざめき、やがて酒が廻って歌い出す者まで現れましたが、市川経好殿は、やや気の張った表情で笑顔一つ浮かべません。
やがて夜も更けてゆき、座っていた一族の者らがひとり、またひとりと立ち去り、かな様と経好殿は、向かい合ったまま二人きりになりました。祝言の初日は、これだけです。あとは、夫婦ふたりきりで夜を過ごし、男と女の契りを交わした後で、翌日から、公式のお祝いごとや挨拶などが賑々しく始まります。
祝言の間は、この宏大な屋敷のいちばん奥まった庭に面しておりました。襖は閉め立てられ、庭の様子は見えませんが、たまに風が吹き渡り、湿った暑気を払ってくれているのがわかります。座敷の中には灯明がいくつか灯され、薄暗がりのなかで、向かい合った新たな夫婦の顔を相互に照らしておりました。
気詰まりな沈黙のあと、ふうっ、と経好殿は、全身の力を抜いて大きなため息をつきました。そのさまが、先ほどまでの生真面目そのものの貌とは真反対に見え、かな様は、ふと笑いました。
「みっともないことでござろうな。」
かな様に笑われた経好殿は、笑顔を浮かべながら、そっと小声で言いました。
この座敷からは表向き立ち去ったとはいえ、ここは邸内。壁に耳あり、誰かがこの会話をそっと盗み聞きしようとしているかもしれません。
「いや、お察しのこととは思うが、拙者、気が張ると、肩が凝り汗が出て、こう、まるっきり落ち着かぬ。ましてや、この暑さでござる。剛毅なる姫からすると、まこと、頼りがいのない夫に見えようて。」
「まあ、お言葉の真っ正直なこと。妾は、正直さを好みます。」
かな様はそう言って、さらに尋ねました。
「これから、妾は、あなた様を、どうお呼びしたら良いものでしょうか。殿?それとも、御前様?」
「あ、ああ・・・殿、でお願い申す。」
汗だくの経好殿は、答えました。そして、唐突に言いました。
「そもそもが、あの恵心坊主であった。あの御坊が、いろいろ余計なお節介を焼いて来てのう。本来は京の退耕庵に居られる、それはもう尊い高僧ではあられるが、もう数十年来、毛利のお家に深く入り込んでおる。御屋形様のご信任も篤く、御坊が言い出したことは、大抵そのとおりに極まってしまう。」