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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第十二章  和解 (2)

毛利軍が大挙して、山口の町に進軍して参りました。数は優に一万を越え、美々しいなりで整然と隊伍を組み、地響きを立てて歩いて参ります。先駆に騎馬隊、継いで徒歩の足軽たち。そして無数の夫丸(ぶまる)()く荷車には山のように武具糧食が積まれ、後衛を受け持つ一隊は、見慣れぬ筒のような石火矢(いしびや)を肩に抱えておりました。


特徴のある一文字三星紋いちもんじさんせいもんの旗指物が風に靡き、そのあとに小早川の三つ巴紋、吉川の三つ引両紋が続きます。将らの黒甲が陽の光を跳ね返してぎらりとした輝きを放ち、辻の脇で不安げに隊列を見上げる民草どもの眼を射ました。しかし、それまでの噂と違い、入城してきた毛利軍の軍規は厳正で、つきものの略奪や陵辱などの不祥事は、ここではほとんど起こりませんでした。


これは、さきの防芸国境における長く苦しい戦いで、行き過ぎた乱妨(らんぼう)や無統制な略奪により抵抗の連鎖を引き起こしてしまったことを猛省した毛利軍の首脳部が、自らの兵どもの引き締めに乗り出した結果であったのです。戦野に(むな)しく散った、名もなき者どもの魂が、ある意味で山口の平穏を守った訳でありました。


毛利は、変わろうとしておりました。かつての、手段を択ばぬ酷薄さと豺狼(さいろう)のような残忍さに代わり、わが身を律する(ことわり)、民草を慰撫する温情を持ち、そしてその家名をより良く天下に響かせるための、さまざまな人の和と繋がりとを欲しておりました。


特に、かつて日の本一の殷賑(いんしん)を誇ったこの文化の都、山口に入ったことは重要でございました。この町のあちこちには、いまだ京洛や堺などと濃いつながりある人々が残り、通交や連絡は頻繁です。ここでの振舞い、ここでの統治のありようが、おそらくその後数十年の、日の本全体における毛利家の評判を決めてしまうのでございます。


元就公はじめ、ご当主の隆元公、さらにそれを補佐する弟御のお二人。いずれも英明な毛利家の首脳陣は、このことをよく理解しておりました。武威(ぶい)の家から内治の家へ。憎しみから温情へ。


そして、そのひとつの(あらわ)れとなった小さな(えにし)が、内藤家を舞台に、取り結ばれることとなるのでございます。




その日の内藤邸は、急に決まった来客への応対で大わらわでございました。


なんと、新たなる山口の主となった毛利家から、当主隆元公の正室である、尾崎局(おざきのつぼね)がお越しになられるというのです。以前にご説明申し上げましたが、尾崎局は、御名をあやや様といい、ほかならぬこの内藤家から毛利家へ嫁がれた身の上なのでございます。すなわち、あやや様は隆世様亡き後の内藤家ご当主、内藤隆春殿の実の姉上。このご訪問は、久方ぶりの実家への里帰りということで、しつらえられた場でございました。


あやや様は、竺雲恵心(じくうんえしん)という高僧と数名の重臣を伴い、内藤家の奥座敷に入りました。しばし、弟御の隆春殿ら内藤家の面々と打ち解けた座談のあと、急きょではございましたが、邸内離れの書院に控えた、かな様にお呼びがかかりました。


これは、全く予期せぬこと。いささか慌て、身重の身体ゆえと一度は辞退しました。しかし、あやや様たってのご希望と言われては、内藤家として御前に出さないわけには参りません。説得され、とうとうかな様も折れて、そのまま邸内の渡り廊下を静々と歩き大座敷へと顔を出したのでございます。

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