第十二章 和解 (1)
さて、これまで、大内氏が毛利氏にじわじわ討滅されゆくさまをお話し申し上げました。大内義長公と内藤隆世殿は、長門の端まで落ち延びましたが、大友に見放され、毛利の奸計に嵌り、哀れ、そこで自刃させられてしまいました。
さてそのとき、かな様はどこで、なにをしていたのでしょうか。かつて、隆世殿の御前で、涙にくれながら、内藤や大内と生死をともにすると誓ったかな様ですが、そのお言葉を違え、我が身を助くるため、恨み重なるあの毛利に靡いてしまったのでありましょうか?
たしかに、かな様は、長門へと落ち延びられる大内義長公と、お供をする内藤隆世殿、左座宗右衛門らの死出の旅路を、心ならずも辻で見送り、そのまま山口の内藤邸に逗まりました。それには、理由がございました。かな様は、腹に氷上太郎の子を宿しておいでだったのでございます。
氷上が海の彼方へと去りてはや半年。この頃には、すっかりおなかも大きくなり、ひところの酷い悪阻などは治まっておりました。内藤邸の庭や、外の街路などを侍女に手を引かれ、あるいはご自身で杖などついて歩くお姿は、すでに多くの人々の目に触れていたのでございます。舞の師匠と弟子という関係に過ぎぬふたりのあいだに子ができたことは、もちろん表向きには伏せられています。しかし、人の口に戸は立てられぬもの。内藤邸内の誰しも、あるいは山口の町雀共が、そのことを知らぬ訳はございません。
もし、かな様が内藤家の人間だったら。あるいは、あれこれと口さがないことなどを言われ、どこか邸外へと放逐されるようなことも、あり得たことかもしれません。しかしながら、かな様は哀れな漂泊の安芸国人領主の娘。住むところとてなく内藤に引き取られた身です。また、言うたら聞かぬその勝ち気なご気性からも、たまに古い武家のしきたりへ忠実でないお振舞いなどがあったとしても、それはそれでやむ無し、と周囲から大目に見られておる面がございました。
これは、日頃のかな様が、武家の娘たる、凛としたお振舞いを常になさっていたことも関係していたことでしょう。その毅さ、たくましさは、この程度の不実で、その評価を汚されてしまうようなものではなかったのでございます。
されど、ひとつ心配事がございました。かつて宮庄家の面々は、吉川家の乗っ取りに抗して毛利から安芸を逐われた身。いまふたたび、毛利の虜とされると、どのように扱われるか、わかったものではございません。内藤のご当主が隆世殿であれば、どのような手を打ってでも宮庄をお守りになられたことでしょうが、彼が去られたあと、家内を仕切っているのは、完全に毛利に転ばれた、あの隆春殿でございます。
隆春殿の宮庄家に対する日頃の扱いは、隆世殿同様、丁寧で穏やかなものでしたが、もちろん、これからやって来る新たな支配者、毛利の意向次第で、その態度は豹変してしまうこともあり得るのです。かな様は恬淡としておりましたが、宮庄の面々、また内藤家や周囲の者どもは、いささかの懸念をもって、その日が来るのを待ち受けておりました。