第十一章 滅びの花 (4)
内藤隆世殿が死際に言い遺した、「先代以来の内藤の汚名」とは、先代、興盛殿が陶殿のご謀叛のさいにとったどっちつかずの謎めいたお振舞いと、このたび、毛利からの調略に、みずからの叔父隆春殿が靡いてしまい、内藤家が真っ二つに分かれる醜態をさらしてしまったことを指しておりました。現に、内藤軍の大半は、隆春どののもと、ただ刀を置き山口の沿道に跪いて毛利軍の入城を迎えることとなったのです。
長門まで、大内家の死出の旅路のお供をしていたのは、わずかに数えるばかりの兵たちだけでした。さらに、ほんの数十名でしたが、義長公みずからの供回りや、警護の武士たちがおりました。左座宗右衛門も、そのなかに混じっておりました。
隆世殿が壮絶な自決を遂げたあと、義長公と彼ら一行は、付近の長門長福院に移されました。が、翌日、境内で思い思いに散った彼ら武士たちをかき分けて、また、あの福原貞俊がやって来ました。
「はて、困り申した。」
福原は言います。
「我ら、義長公のお身柄を豊後にお移しすべく、兄君に迎えの船を寄越すよう打診しておったのですが。」
わざとらしく、意外なそうな面持ちをつくり、言葉を続けました。
「兄君いわく、左様な者は知らぬ、と。すでに大友の家を出し者、どこでどうなろうと、知ったことではない、との思し召しにござる。」
長福院の堂内は、閑としました。来るべきものが、やって来たのです。
「すなわち。」
福原は、大内方の面々の沈黙をいいことに、平然と冷酷な言葉を続けます。
「われらにも、義長公を受け入れる準備は無し。我らが御屋形様の温情をもって、海の向こうに帰られるなら追わねども、帰る先がないとなると、これ、いささか、拙者としても困り申す。」
観念した義長公が、しずかに口を開きました。
「儂一人で良いな?」
福原は、やにわに真面目な顔になり、そのまま、畏まって平伏しました。
「いかにも。」
すでに、これから何が起こるのかを察した警護の武士共が、騒ぎ始めました。福原を護衛して附いてきていた毛利兵と、小競り合いが起き、不穏な空気が堂内を包みます。
しかしこのとき、日ごろ穏やかな義長公が、これまで誰も聞いたことのないような大声で、皆を一喝しました。
「鎮まれ!ことここに至っては、是非もなし。儂は、もとより大内の名に殉ずる覚悟を決めておる。いま、これなる福原殿が、儂ひとり腹を切らば、他のものには一切手出しせぬと、武士の名にかけて申された。ならば儂は、喜んで腹を切り、隆世と、死んでいった者共のもとに参る。」
言い終わって、念を押すように、福原を見ました。彼は即座に、大声で叫びました。
「二言なーし!我らが欲すは、ただ義長公の御首のーみ!」
堂内、しわぶきひとつ漏らす者はございませんでした。
義長公は、そのまま、辞世の句をしたため、静かに腹を召されました。日の本一の武家として、燦たる栄光に包まれた大内家数百年の歴史が、ここに虚しくその幕を閉じることとなったのです。
辞世は、こうでした。
「誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」
もはや、わたくしごときが、何を申せましょう。このとき義長公が御胸のうちでご覧になられていたのは、あの可憐な紫の花々ではございますまい。櫻花か菊か、それとも牡丹か。いずれかはわかりかねますが、海を越え、いちどは掴んだその美しき花とともに、まだわずか廿六歳におなりになったばかりの義長公は、その海を見ながらはかなき御命を散らされることとなったのでございます。




