第十一章 滅びの花 (3)
城将の山崎興盛殿だけは自刃の名誉を与えられましたが、哀れだったのは、彼に従いこの城に籠もった雑兵や民草どもです。彼らが怖れていたとおり、毛利兵はその獣性を剥き出しにして襲いかかり、戦闘は停止されていたにもかかわらず、城内に籠もっていた者どもを尽く鏖にしてしまいました。
隆景殿がそれをお命じになったわけではありませぬ。ただ、半歳にわたり苦しき戦いを強いられ、輝ける山口の都への進軍を邪魔された兵どもの鬱屈が一気に爆発し、暴力は暴力を呼び、すべてが悪しきほうへと連鎖して、もはや誰もそれを止められなくなったのです。
阿鼻叫喚の地獄となった城内。兵どもと同じく猛りたっていたとはいえ、英明な小早川隆景殿は、こうした振舞いがやがて毛利に大きな禍をなすであろうことを悟りました。そのこころは、彼を支援して出張ってきていた元就公や、隆元公も同じ。悪辣な奸計や収奪で大きくなってきた毛利家は、これ以降、やっとのこと、戦地における民衆の慰撫や、占した土地を安んじる方策とに、心を砕くようになります。その呼び水となったのは、まぎれもない、沼城で犠牲となった、幾千もの名もなき兵や民の、物言わぬ骸であったのです。
さて、こうしてじりじりと血みどろの前進を続けた毛利軍は、ようやく、防府の天満宮に進出、ここに本営を置いて山口への突入を窺う形勢となりました。背後からは、主として山陰勢を率いた勇猛果敢な元就公の次男、吉川元春殿の軍勢が迫ってまいります。
まさに、王手でした。
毛利の勢いは凄まじく、斜陽の大内には、もはや抗するすべもございません。完成まじかだった高嶺城はそのまま放棄されることとなり、大内義長公は、山口を戦火に巻き込むことを怖れ、毛利方に町を明け渡してから、長門の勝山城へと退がりました。壇ノ浦のほど近く、みずからの兄君のおられる豊後とは目と鼻の先です。
ここで、兄からの援軍を待ちましたが、海峡の先からは、うんともすんとも返事がありません。勝山城を包囲した毛利軍は、もちろん型通りに周辺の泊や津をことごとく押さえて、豊後からの支援を断つように動きましたが、それでも、密使ひとりやって来ぬは不審です。また、外交的に、仲裁や和睦をおこなうような動きもなく、義長公は、兄に冷たく見捨てられたことを、あらためて知ることになったのでございます。
勝山城のどこかの崖の高みに、あの蒼き花々は咲いていたでございましょうか。
大内の跡目を受け、兄と手を取り合って西国を制し、ともに栄えようと夢見た義長公は、その心地よい浅いまどろみから目覚めました。そして、壇ノ浦の海鳴りを聞きながら、自らの、ささやかな夢が儚く散ったことを今さらながら思い知らされたのでございます。
翌日、毛利の攻囲陣から勝山城へ、二人の軍使が派遣されて来ました。彼らは、福原貞俊と市川経好と名乗りました。正使の福原は、大内の降伏条件について、次のように言いました。
「われら、義長公へはとくに遺恨ござらぬ。ただ陶と結託し、先君、大内義隆様を討った逆賊、内藤隆世は赦せず。これを切腹させ、ただ騒がず降伏されれば、あとの兵らに手出しは致さぬ。義長公には船をご用意し、豊後までお送り仕らん。」
義長公は、言下に撥ね付けましたが、脇に控えていた内藤隆世殿がそれを押し留めました。彼は、すずやかな顔で、義長公の助命は確かか、もう一度福原に確認し、そのあとで義長公にこう言いました。
「拙者、この切腹の名誉を喜びまする。それにより兵らが、また御屋形様の御命が助かり、また先代以来の内藤の汚名も雪げまする。どうか、どうか、お立ち退き遊ばし、後日、また海を渡りて大内を再興されんことを御願い奉らん。」
そして、やにわに毛利の軍使ふたりのほうへ振り向くと、その場で脇差を腹に突き立て、うなりながら、そして笑いながら、自決されたのでございます。介錯もなく、そのまま事切れるまでしばしの間がございましたが、そのかん、軍使二人から目を離さず、やがて口から血が流れて、そのまま、どうと前のめりに斃れました。見事な最期でした。
副使の市川のほうは、この壮絶な敵将の最期に、やや動揺した気配が見られましたが、福原のほうは顔色も変えません。彼は、この自決を見届けたあと、
「お見事。それでは、これにて。」
とだけ言い、平然とその場をあとにしました。




