第十一章 滅びの花 (1)
ひとつ大切なことを失念しておりました。これは、わたくしも又聞きの噂に過ぎないのですが、あなた様にあらためて申し上げておく価値のあることです。
氷上太郎が山口を去る少し前、大内義長公は、来るべき毛利軍との決戦に備えて、山口を防衛するための本格的な城砦の造営にかかりました。大内家全盛の頃は、ここまで他国の軍が寄せてくることなどまったく考えられていなかったのですが、あり得ぬその事態に立ち至り、ようやく慌ただしい普請が始まった次第なのです。
その城砦を建てる場所は、市街を北縁から見下ろす、鴻ノ峰。氷上とかな様が、月が満ちるごとの逢瀬に使っていた、まさにその場所でございます。本丸は遥か頂上に設けられる予定でしたが、あの、お堂があった中腹の小さな平地も、ちょっとした武者溜りや郭を設けるのに適した地形でした。
義長公じきじきに、現地を検分なさり、たまたま氷上もそれに同道しておりました。義長公は、眼下の山口市街を見下ろしながら、この城をなんと名付けようかその場でご思案なされたそうでございます。
周囲にいた重臣や、お付きのものなども、思いつくまま様々に案を申し述べました。曰く、山口城、鴻ノ峰城、勝鬨城、指月城、その他もろもろ・・・。通例ですと、よりお立場の重いお方が言上されたお名前のうち、よいものを義長公が択ばれて決まるのですが、このときふと、義長公は、傍らに控えていた氷上にも、案を問うたのです。
氷上は、しばし、考えて、
「高嶺城」
という自らの案を申し述べました。
たしかにここは、山口を遥かに見下ろす高い嶺でございます。されど、その名が特にこの城ならではの強味や特色をよく捉えた名のようにも思えず、その場は、それきりとなりました。
きっと彼らは、そこにまだ建っていたお堂の裏手の崖を見なかったからでございます。そこには、あの絢爛たる蒼や紫の花々が、人の手の届かぬ高嶺に、わんさと咲き誇っていたでありましょうから。
しかし、氷上が山口を去ってから、義長公がお決めになった城の名前は、まさにその「高嶺城」でした。ただし、読み方が少し違い、「たかね」ではなく、「こうのみね」と名付けられることになりました。ただ、いささか音として長く、下々の者どもの間ではこっそり、「たかみね」と少し換えて呼び習わされることが多くなりました。もしかすると、これは、豊後からの指示で、やむなくわがもとを去る氷上へ向けた、義長公の別れの挨拶であったのかもしれませぬ。
ともかくも、かな様に対する氷上の想いが、奈辺に在ったものか、このことで少しはあなた様にも伝わるのではないでしょうか。
こうして、(そのときは誰も知りませんでしたが)くしくも、氷上の脳裏に残る、美しきかな様の面影が、ここ山口を護る城砦の名となり、後世にまで伝えられることとなったのです。
しかしこれは、あまりにも哀しく、あまりにも非情な歴史の皮肉となって、こののち、両者の運命を呪う名ともなってしまうのでございます。




