第十章 儚き花 (4)
「勝手なことを。」
かな様は、吐き捨てるように言いました。
「それが、何故?なにゆえ豊後へと逃げ戻るのか?さしづめ、この山口がもうすぐ戦場になるとて、きっと、命が惜しくなったのであろう。」
「その咎は、拙者にあり申す。」
左座は、ややあらたまって、言いました。
「拙者、このかんの氷上のありようを、逐一、ありのまま豊後の吉岡殿のもとへ報じ続けました。もちろん、氷上の邪魔立てをするつもりはございませんでしたが、有ることを、ただ有体に報じ告げるは、拙者の務めでござる。」
勁い眼で、かな様を見ました。一本気なご気性のかな様も、これには頷かざるを得ません。
「もちろん。抜けたい、足を洗いたいという氷上殿の希望も、伝え申した。これまでの功に免じ、どうかその希望を叶えて欲しいとも書き添え申した。しかし。」
「しかし?」
「吉岡様は、それをお認めには、なりませなんだ。逆に、氷上を叱責し、これまでのことを少しでも恩と感ずる心があるならば、そこで、山口で、きちんと務めを果たせ。それが出来なば、豊後へ立ち戻れ。女子ひとつで変わる心根の者ならば、はや諜者としては役に立たぬ。じき海峡は緊迫し、おそらく大きな戦が起こる。斯様な甘き考えで務まる役目ではなし。左座の邪魔になる故、疾く立ち戻れ。これが、吉岡様からの返答でござった。」
「おぬしらは、道場の奥で、そんなことを話しておったのか。」
「左様でござる。しかし、この場合、理はすべて吉岡様にあり申す。すでにかな様に懸想し、役に立たぬ諜者と成り果てた氷上殿は、山口にいるだけ危険でござる。我らの足を引っ張るだけでなく、いつ気取られて誰ぞに斬られるか、わかったものではござらぬ。世の裏に生きる諜者であった者が、表の世に戻り、平穏に生を焉えることなど、所詮は無理というもの。それならば、せめて豊後に戻り、なにか別の役目でも与えたほうが、氷上殿に対する慈悲と申すもの。」
「吉岡殿は、氷上のためを思うて、豊後に戻れと命じたと申すか?」
「おそらくは。拙者は、そう信じたいと思います。しかし、もしかして、名門の血を引く氷上殿には、拙者などと違い、まだ、別の利用価値が有るとお判じになられておるやもしれませぬ。」
「吉岡殿とは、げに恐ろしきお方じゃな。」
かな様は、感じ入ったように言いました。
「そち等の一生を支配し、思うがままに手駒として操る。ただそのとおりに動くそち等の義は、武家の忠義とは違う。そち等は、まるで、吉岡殿の、指先の爪のようじゃ。」