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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第十章  儚き花 (1)

氷上太郎は、そのあと間もなく、山口を去りました。


もちろん、去る前に彼はなんども、かな様に会おうとし、ことの経緯を説明しようとしました。それはもう、涙ぐましいほどの努力でございました。内藤邸までなんども使いをよこし、かな様を呼び出そうとしましたが、まったく相手にされず、遂にはみずからが何度も邸の門まで(おとの)う始末。しかしながら、かな様は面会を一切拒み、応対した家人に手渡された書状を開いてみることすらせず、そのまま、奥庭で()かれる火に投げ入れ、燃やしてしまうのでございます。


やがて聞こえてきたのは、氷上は決してみずからの意思で去るのではなく、むしろ、主人の大内義長公のご意向によって、その任を解かれたのだということでした。たしかに、あの石見の陣からのご帰還いらい、大内家には凶事が続き、とてもではないですが当主が舞の稽古などに(うつつ)を抜かしている状態ではございません。また、義長公ご自身もひどく健康を害され、この頃は、ひところの覇気をまったく喪っているという噂すら流れておりました。


氷上は、正規の武士ではなく、単なる芸事(げいごと)の師匠でございます(少なくとも、表向きは)。武士のように、扶持(ふち)を給されているわけではないため、雇い主からの解雇とはすなわち、日々の活計(たつき)をなくすことに等しいのです。山口における舞の道場もいまは無く、彼には生活の基盤がございません。氷上自身が、かな様にだけ告白したとおり、その昔の父の代までの(つて)辿(たど)れば、どこかに身を預ける場所くらいは確保できたかもしれません。しかしそうするためには、彼はまず、大友の諜者としての、自分の正体を明かさねばならないことになります。


月が満ちるごとの、あの美しく(たの)しき鴻ノ峰(こうのみね)における月下(げっか)の舞も、とうとうこのときをもって途切れてしまいました。氷上は、山口を去る直前、いちどだけここに来てくれないかと使いを寄越して懇請(こんせい)したのですが、かな様のほうではにべもなく、二人は、その後いちども会わぬままになってしまっていたのでございます。




氷上が豊後へと去る船上の人となった翌日、内藤邸の離れの書院に籠もっていたかな様の前に、いきなり現れた男がおりました。


日焼けした黒い(かお)。鋭い光を放つ眼。小脇に刀の鞘を抱えた古木のような男。


左座(ざざ)宗右衛門です。


かな様は驚き、なにごとか叫びそうになりました。左座が来るとは、なにも聞いていなかったからです。左座は静かにするように、身振りで示して、そのまま()(えん)に腰掛け、脇に刀を置きました。彼は言いました。


「ご無礼は、お詫び致す。」

「無礼どころではない。どのようにして入ってきた?曲者として、斬り捨てられても仕方のないところだ。」

かな様は、怒っておられます。しかし、左座の望む通り、声は低くしました。


「実は、内藤家のご家内に、一寸(ちょっ)とした貸しのある者が居り。」

左座は、こともなげに言いました。

「裏手より、するりと、入って来申した。」

「ふっ。そちらしい。で、今さら何の用じゃ?」

硬い表情のまま、かな様が聞きます。


「なに。氷上殿から、これを、かな様に渡して欲しいと頼まれ申してな。」

懐から、二つに折った布を差し出し、かな様の膝の前に置きました。

小癪(こしゃく)なことを。(わらわ)がそのような書を開くと思うてか。」

「いやいや、書状ではござらぬ。」

「なに?」

「お読みになるものではござらぬ。なにとぞ、拙者に免じて一瞥(いちべつ)だけでも。」

左座は、珍しくかな様の顔を正面から見て、軽く頭を下げました。


かな様は、ひとしきり左座を睨み、低くため息をついてから、その布切れを手に取りました。


中から、紺碧(こんぺき)の花びらがはらりとこぼれ落ち、微風(そよかぜ)にあおられ舞うようにひらひらとしばし宙を飛んだあと、畳の上にそっとその身を横たえました。

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