第一章 謀叛 (2)
そして・・・申すのもおいたわしいことではございますが、まだ十歳にもならぬ興経公の一粒種、千法師君もそのとき弑せられてしまいました。勇敢な乳母が、みずからが巻添えになることも厭わず、千法師君をおぶって山中に逃れ出たのですが、逃げ切れず、ともども追手に討ち取られた由にございます。
この、千法師君をお産みになった生母こそ、宮庄経友殿の息女。宮庄は、主君興経公とのつながり深く、側室として息女が閨に上がられておりました。すなわち、斬られた千法師君は、経友殿の孫にあたるのです。生母はご無事でしたが、経友殿はこの成り行きに激昂し、手勢を集めて元就公を討とうとしました。ところが、悪辣極まりない毛利の手はすでに宮庄家中にまで回っており、呼び集めども軍勢は集まらず、やがて悠々と進軍してきた毛利の一隊が、家中を苦もなく押さえてしまったのでございます。
宮庄親子は、命こそ助けられたものの、そのまま領地を召し上げられ、追放の身の上となってしまいました。そして、父子ともども山口に逃れ、ここで領主大内氏の重臣、内藤家の庇護を受けることになりました。その後は、内藤家の経済力もあり、まずまず不自由のない暮らしをしていたのですが、それでも落魄の身の上となった親子の悲嘆・落胆は大きく、山口に落ち着いて最初の冬と翌年に、相次いで逝去してしまったのでございます。
かな様は、その基友殿の長女。早くからきわだった美貌で知られ、たまに下女など連れて殷賑極める山口のご城下を歩きますと、道行く者どもが、みなみな目を瞠り、おどろいた顔で振り返ります。しかしながら、いま語ったような不幸な御身の上、隣国から追われ、どことなくその美貌も不幸の翳のようなものを帯び、そしてとにかく異常なまでの癇癪持ちときては、なんとはなしに誰からも距離をもたれ、特に親しき友もないまま、いつしか十三歳を迎えていたのでございます。
そのようなさなか、流浪の宮庄一族のかすかな寄る辺となった山口で流れはじめたこの新たな謀叛の噂。あちらでも、こちらでも。
聞こえてくるのは、陶殿ら武断派の諸将と、相良殿ら文治派諸将の内紛についてのあれこれ。そして、外から隙をうかがう尼子や大友ら敵対勢力の暗躍。いつ何が起こってもおかしくない、そのような悲観的な雰囲気が満ち満ちるなか、ひとり構わず、うたかたの泰平に現を抜かす御仁が居られました。
他ならぬ、大内家第十六代当主、兵部卿大内義隆公でございます。公はおそらく、いや、誰がどうみても、当時の日の本で第一の武人でありました。先代義興公の覇業を受け継ぎ、山陰山陽はもとより、ときに海を渡って九州まで軍を派し転戦、名門の渋川氏や少弐氏を討ち滅ぼして大内の威を四海に轟かせました。また、海外との交易による富を蓄え、山口の都は、東西の文物が行き交う結節点として機能し、京の都をはるかに凌ぐ繁栄ぶりを見せたのでございます。
しかしながら、天文十二年、二年を費やした尼子の月山富田城攻めには大敗しました。お味方は散り散りになり、主君を守りもせず、てんで勝手に周防へ逃げ帰るありさま。義隆公はなんとか無事に逃げおおせましたが、途次、後継者として期待をかけておられた大内晴持殿が敵勢の追撃に捕捉され、帰らぬ人となってしまったのでございます。
これ以降、義隆公のこころのうちに、ぽっかりと大きな穴があいてしまったようでした。あの覇気に満ちた英邁な姿はどこへやら、政務はほったらかし、軍事にも対外的な交渉ごとにもご興味を無くされ、ひたすら財を散じ贅を楽しみ、詩歌管弦に現を抜かし、都からお公家や茶人を呼び寄せては、連歌や蹴鞠や舞や茶乃湯や能楽や・・・その他さまざま、現し世のありとあらゆる享楽に耽る日々を送られるようになってしまったのです。
たしかに、ご当主がそのような有様であっても、すぐとは揺るがぬ屋台骨を、当時の大内家はまだ持っておりました。名君と謳われた先代の大内義興公も、晩年、足元の国事はほったらかし、ひたすら遠く離れた京の都での戦乱においてただ虚名を博さんがためだけの名誉の出兵に明け暮れましたが、しかしそれでも十有余年、微塵も揺らぐことのなかった大内家の並ぶものなき富強は、義隆公の放埒三昧をも、しばらくは許容し得るだけの余裕があったのでございます。