第九章 喪失 (4)
かな様が、はっとして顔を上げました。眼が、まん丸くなっておりました。
「遠慮は要らぬ。もしそちが、氷上に従いて豊後に退きたいと申すならば、止め立ては致さぬ。幾ばくかの餞も持たせよう。一族連れて船に乗り立ち退け。ここは、もうすぐ、戦場となろうぞ。」
いちど豊後に戻ってからの氷上の態度が、どことなく、微かに変化した理由を、かな様は悟りました。隆世殿が、まだ二言三言、なにかを言っていたような気がしましたが、かな様はまったく聞いてはおりません。むしろ、無礼にもその言葉を遮り、激情の迸るまま、こう叫ばれたのでございます。
「宮庄は、内藤家への恩義を、決して忘れてはおりませぬ。もし内藤が、毛利と戦い、散ると言われるのであれば、それは、われらが本望。われらも、かつて毛利の奸計によって安芸を逐われた家でございます。むしろ、隆世様のほうこそ、お心のままに。お心のままに我らを使い、お心のままに我らを死なせ給え。内藤が、ここで朽ちなんとせば、こここそが、我ら宮庄一党の死に場所でございます!」
そのまま、潤々と輝く眼で、隆世様を見つめました。その決然たるお美しさたるや。それは、その後しばらくのあいだ、山口の町のそちこちで、しばし語り草となったくらいの美しさであったと漏れ聞きます。迫り来る破滅と、逃れ得ぬ死と。地獄の闇とは板子一枚ほどしか隔たっておらぬところで咲き誇る、武家の娘の艶やかで、涼やかな覚悟は、その場に居合わせた者ども、そして隆世殿の心を、烈しく揺さぶったものと思われます。
座敷は、しばらくしんと静まり返り、やがて、気圧された隆世殿が、やっと、このように言いました。
「わかった。その心、われらとしても嬉しく思う。だが、まだ我らが滅ぶと決まったわけではない。共に戦い、敗れしときは、共に死のうぞ。しかし、短慮はならぬ。内藤は、宮庄家が望む限りは、これを守る。それは、先代の意でもある。立ち退けなどと申したは、儂の不覚であった。どうか許せ。」
その言葉を聞き、かな様は、激しくしゃくり上げはじめました。宮庄の家のものが、にじり寄り、かな様の肩を抱いて下がらせようとしましたが、かな様は、猛然とその腕を振りほどき、なおもその場で泣き、嗚咽し続けました。
人々は、その涙を、かな様の武家の娘としての誇りが流させた涙だと思いました。その昔、先代の内藤興盛殿のまえで流された涙と、同質のものだと。その天晴な心意気に、皆々、内心で感動し、涙したのです。
しかし、今となっては、すべて明らかなこと。そのときかな様の流された涙は、昔、興盛様の前で流した涙とは、まったく別のものだったのです。