第九章 喪失 (1)
なんら得るもののない、山深き石見での冬季の長陣のあと、大内義長公と、陶晴賢殿はじめ大内軍の主力部隊が、うちしおれた態でとぼとぼと山口へと戻って参りました。
負けたわけではございません。表向きは、兵糧が尽き、音を上げた吉見正頼殿が詫びを入れ、大内が寛大にそれを赦し、和睦していったん軍を下げた格好になっていたのです。さりとて、大内が勝ったなどとは到底いえません。戦の実態は、この大軍が、天険に籠もる小勢の吉見軍に手も出せず、ただ凍てつくような冬場の山中で、なんらなすことなく時ばかり過ごしただけの話なのです。
山口の目抜き通りを行進する兵たちの眼は血走り、げっそりと頬がこけ、皮膚は雪焼けで黒ずんでいました。全体に覇気がなく、よろよろとして、まるで統率の取れていない烏合の衆のように見えました。立派なのは、ただ義長公の御廻衆の馬印や旗指物だけ。そこだけが美麗にきらきらと陽の光を受け輝いていており、そのまばゆい光が、かえって隊列の兵どもとのくすみ具合から浮き立ち、今後の大内の行く末を無言のうちに物語っているようでした。
魂の抜けた軍勢は、内側から腐り、崩壊し始めます。軍はいったん解散となり、兵たちはそれぞれの故郷へ戻ることを許されましたが、まだ多くが山口に残って、そこで鬱積した怒りや不満を吐き出しはじめました。町の辻での喧嘩騒ぎや刃傷沙汰、娘子への暴行や陵辱など、治安が一気に悪化し、人々の不安が増して参りました。
この事態を放置しておくと、やがて大内氏の統治への不満となり、各地での謀叛や争いに変化して、さらにその鎮定に軍を起こす必要が生じるという、無限の連鎖となって国を疲弊させてしまいます。この悪い流れを裁ち切るには、なにかひとつ、はっきりとした形での大勝利が必要でした。
氷上太郎は、久方ぶりに武家の奉公人の容貌となり、衣服を改めて大内館へと伺候しました。上座に座る義長公は、若さと精気を喪い、わずか半年ばかりの間で、いっきに老けてしまったように見えました。公は、もはや舞など舞うほどの余裕がございません。その代わり、氷上に豊後へ使者となって立つよう命じました。すなわち、実兄の大友義鎮公に、東の毛利を伐つための支援を要請したのです。できれば援軍を。無理であればせめて軍費や兵糧などの支援を。
なにより、義長公が欲しかったのは、自分の親しき兄からの、温かい激励の言葉であったのでしょう。氷上は命を復唱し、しばし舞の道場の差配をかな様に任せ、豊後へ向け船上の人となりました。
ひと月後、氷上が捧げて持ち帰ってきた返書の内容は、愕然とするようなものでした。そこには、打ち続く戦乱と内紛への対応に追われ、いまは大内への支援を行うゆとりはない。辛かろうが、大内を出て他家を継いだ身であるのだから、独力で切り抜けるようにと告げる、実の兄からの冷淡な言葉が書き連ねてあったのです。
のちにわかったことですが、このとき、既に毛利の毒牙は、海を越え豊後にまで及んでおりました。元就公は、大内家の存在を無視して義鎮公と国境の画定をはかり、関門海峡でその線を引き、ご自分は赤間ヶ関を出ることはなく、九州は大友の好きなようにするよう申し送っておりました。それを無言のうちに受け入れた義鎮公の御心は、明らか。毛利が大内を攻める際には、ただそれを傍観する。すなわち、大内が敗れた際には、援軍を渡海させることなく、実の弟君を見殺しにするということでした。
義長公はまだお若く、まるで生き馬の目を抜くが如くの戦乱の掟を、いささか甘く見積もっておられていたのかもしれません。自家の安泰を図るためには、他家に出た肉親の命など、塵芥も同然に、棄てられてしまうものなのです。現に、義長公が石見の長陣で凍えておられた頃、肥後ではついに、長年、大友本家に敵対し続けた菊池義武殿が捕縛され、斬殺されておりました。すでに触れましたが、義武公は、大友家の先代、義鑑公の実の弟君。大友義鎮公にとっては、もちろん叔父御に当たります。それでも、義鎮公は躊躇なく殺害を命じました。生かしておけば、また自国への禍となることが、明らかであったからです。
戦の世とは、そういうものなのでございます。
退路は絶たれ、身内からの支援もなく、大内義長公は、疲れ切ったばらばらの軍勢を率いて、ただ単独で毛利に当たらなければならなくなってしまいました。