第八章 水面の漣 (3)
やがて、東のほうより、穏やかでない別の噂が聞こえて参りました。
「防芸引分」で、安芸のほとんどを制圧した毛利元就公に、いよいよ、大内の本軍が敗れたらしいというのです。東方国境を守っていた一軍に、宮川房長殿の指揮のもと石見の戦陣から分派された軍を合わせた数千もの大軍が、安芸を牽制すべく折敷畑なる高地に陣取りましたが、元就公と、公の誇る三名の息子たちが率いる小勢が麓から襲いかかって、これを散々に打ち破ったというのです。
聞けば、房長殿もその鋭い攻撃を支えきれず、敗走しようとしたところを手もなく討ち取られたとのこと。誰一人としてこの包囲陣を抜け出たものはなく、陶殿が派した全軍が、そっくりそのまま、東方国境にて跡形もなく消え去ってしまったのです。
これは、とんと解せぬことでございます。古来、高地より低地を伐つは軍の常道。数多くの戦を経験した宮川殿は、その常道どおり高地に陣を張られたにもかかわらず、麓からばらばらに攻め寄せてきた小勢の毛利に殲滅されてしまったというのです。戦の仔細まではわからないのですが、元就公は、いったい、どんな魔法を使ったのでありましょうか。
ついで、とある大内家の重臣が毛利に内応しているとの噂が流れはじめました。噂は、最初は曖昧模糊としたものでしたが、じょじょに細かなところがわかり、じき、その裏切者の名が聞こえてまいりました。義隆公の代からの勇将、江良房栄殿です。江良殿は、もとは陶殿や弘中隆包殿とならぶ大内家股肱の重鎮で、もし彼が毛利に転ぶようなことになれば、義長公の政権を根底から覆しかねないほどの一大事です。このときは、ただ噂で済んだのですが、翌年、江良殿は同じく内応の疑いをかけられた弘中隆包殿に、身の証をたてるため討たれてしまうことになります。
股肱の臣が二人、そろいもそろって謀叛の噂を立てられ、殺し合うことになるなど、一体、なにがどうなっておるのやら。全くもって、解せぬことであると言わざるを得ますまい。毛利の調略の、底知れぬ物凄さでございます。
じわじわと。ひたひたと。
まるで毒蜘蛛が、ねとねとした嫌らしい糸を吐いて四周の獲物を次々と絡め取っていくがごとく、毛利という、底の知れない勢力の脅威が、東の方角より、山口の平和を脅かしはじめておりました。