第八章 水面の漣 (2)
このように、実は地下ではがちごちと岩が砕け、大内帝国の地盤が揺らぎ始めておりましたが、しかしながら、表向きまだ山口は平和そのものでございました。かつての、義隆公在世時ほどの栄華は失せたとはいえ、大内館の再建が成り、いったんは焼けてしまったあちこちの辻に槌の音が響き渡り、秋穂浦の湊には船が戻り、多くの人が店を出しては商いをし、道行く人々は笑いさざめき、皆でつかの間の平和を愉しんでおったのでございます。
氷上とかな様は、昼間の山口では、あくまで舞の師匠と弟子という間柄。この頃になると、氷上は堂々と舞の道場を開き、かな様以外にも数人の弟子を取って(もちろん、みな男子です)、昼間から舞の稽古をつける毎日でした。
これは、ひとつには、大内義長公が遠く石見の戦陣におられることが関係しておりました。当初はすぐに潰せると思われた吉見勢は、意外に手強く、対陣ははや半年近くに渡っておりました。本来が武士でなく、いや少なくとも表向きは単なる能役者にすぎない氷上に、出番はございません。その代り、左座宗右衛門がその色黒い顔を引き締めて石見と山口を頻繁に行き来し、なにごとか重要な役割を果たしているようでございました。
山口は、もともと博多と堺、そして京の都を結ぶ、内外の文物が頻繁に行き来する場所です。商都であり、文化の香りが匂い立つところ。そこには、何人もの数寄者がおりました。あるものは茶、あるものは花、そして連歌に俳諧、そして舞。氷上の開いた道場は、またたく間に評判となり、多くは武家の子弟か豪商の一族などに限られてはおりましたが、入門者が引きも切らず。彼らはひとしきり舞を舞ったあと、座談でさまざまな事どもを語り、実は豊後大友氏の諜者という裏の貌を持つ氷上に、有益な知らせを与えては帰っていったのです。
かつては誇り高き安芸宮庄家のひとり娘だったかな様は、いわば、この諜者の手下に成り下がったようなものでございます。もちろん底意はなく、ご自分からすすんでなにか重要な話を聞き出すわけではありませんが、その手助けをしていたことに変わりはございません。氷上の一番弟子として、あとから入る者たちへの簡単な稽古などを受け持ち、また、道場でただひとりの女子として、かいがいしく他の門人たちの世話を焼くなどしては忙しく立ち働いておりました。
あの月が満ちるごとの鴻ノ峰での逢瀬のことは、まだ誰にも知られてはおられませんでしたが、かな様と氷上との仲はいわば、公然の秘密。多分に嫉妬をこめた想像の尾鰭がさまざま附いてはおりましたものの、道場の、また周辺の誰もがそのことを噂し、優雅な舞の師匠と、猛き武家の血を引く美しき一番弟子との間柄は、山口の町の賑わいを彩る話題のひとつになっておりました。