第八章 水面の漣 (1)
月の満ちるたび、かな様と氷上が鴻ノ峰の堂内でひそやかな逢瀬を楽しむようになって間もなく、いちどは鎮まったと思われた池の水面に、誰かが小石を投げ込んだような漣が立ち始めました。大内義長公が当主の座についてから、まだかれこれ二年ほどしか経って居らぬ頃でございます。
天文廿二年の秋、まずは吉見正頼なる土豪が、石見国の天険、三本松城に拠って、義長公に公然と反旗を翻しました。
彼は、先代大内義隆公と入魂の間柄で、陶晴賢殿との折り合いの悪さについては、知らぬものとてありませぬ。これまでは彼我の圧倒的な実力差から、面従腹背の態度を保っておりましたが、とうとう、その本性を顕したのです。しかしながらこの時点では、さもありなん、という皆の受け取りようからしても、まださほどの危機感を抱いた者はおりませんでした。
さりとて、この公然たる挑戦を、潰さないわけには参りません。吉見殿の手勢はわずかな数だと思われましたが、いまや大内家の軍事の全権を統べる立場にある陶殿は、新生・大内政権の武威を見せつける絶好機と見て取ったのでしょう。翌年の春、大内義長公を奉じ、なんと二万を数える大軍をこの山深き戦場へと派すことが決められ、あたかも防長の全軍が石見の山深くに集結、展開するという仰々しき次第になりました。
そして、ひとり、この事態にほくそ笑んでいた人物がおります。隣国、安芸を制圧しつつあった毛利元就という老将で、このとき既に六十歳間近でした。長年の辛苦の末、山間の小盆地に過ぎない吉田郡山を出て野に降り守護の安芸武田氏を滅ぼし、次男三男を押し込む形でもとは同格の吉川家、小早川家を労せず乗っ取り、安芸のほぼ全域を制圧するという豪腕を発揮したこの梟雄は、この時点でもう完全に大内への敵対を決めておりました。
彼は、表向き大内に臣従するふりをしつつ、裏では吉見殿と手を組んでこれを煽り、巨大な大内軍の主力をそちらに指向させるよう仕向けました。その結果、安芸から防長一帯に至る広大な軍事の空白地帯を生みだすことに成功したのです。そして、ちょうど大内の大軍が石見の深き山中に姿を没す頃合いをみて一気に行動を興し、電撃のように瀬戸内沿岸の大内方要衝を幾つも陥れる大勝利を得ました。世に「防芸引分」と呼ばれるこの鮮やかな手切れのやり方は、おそらく古今未曾有のもの。元就公の偉才を顕すとともに、その狡猾で容赦のない酷薄さを示すものでもございましょう。
知勇に優れた陶殿も、英邁な義長公も、この、深山の木菟のように底知れない老雄の心のうちを読み取れるほどには老成していなかったのでしょう。両名とも、ただ大内の威を見せつけたいがために、みすみす元就公の仕掛けた罠にはまり、破滅への下り坂をゆるりと転がりだすことになってしまったのです。