第七章 高嶺の花々 (4)
「あれを、一輪。」
氷上は、言いました。
「一輪だけ、折り取って、かな様にお渡ししたいと思ったのです。手が届くかどうか。試みてみましょう。」
そう言って氷上はかな様から手を放し、崖のほうへ一歩、寄りました。
氷上は、もっとも手の届きそうなところを探し、上に手を伸ばしながら、岸壁に沿って右の方へ移動しました。平地のへり、そのままでは闇の中で落ちかねない、危うきところでございます。闇に沈んだ足元は悪く、どこかぐらぐらした石を踏んだ氷上の身が、案の定、よろけました。
「おっ、と。これは、危ない。」
その優雅な舞と同じく、氷上の両腕が円い軌跡を描いて、目前の岩壁を叩きました。あやうく、本当に落ちかけてしまったようです。
「いささか、安易に考えすぎていたようで。」
そのまま、苦笑い。
「すぐ、そこに。手を伸ばせば、届きそうであったのに。いと悔しきことよ。」
氷川は、恨めしげに、崖の上を見上げました。そしてため息をつくと、まっすぐかな様を見て、こう言ったのです。
「あなたは、まるで、あの高嶺に咲く花のようです。」
かな様は、月の光をいっぱいに浴びた瞳で、氷上をじっと見ておりました。
「手を伸ばせば、届くと思いました。いま少しだけわが腕を伸ばせば。指の先さえ触れることができれば・・・あなたを、わが手の中に入れられると。しかし、あと少しのところで、ほんの少しのところで、届き申さぬ。私は、如何にしたらよろしいのでございましょう?」
氷上は、崖を離れました。
かな様のそばに戻ってきて、まっすぐ、目を向けました。
「あなたと私は、似たもの同士。互いに寄る辺なき、はぐれものの、うたかた同士。しかし、あなたは、あの高嶺の花よりも美しい。私は、あなたを、手に入れたいのです。」
かな様は、その潤んだ瞳で、優しく氷上の眼を見ておりました。その瞳のなかに映る、みずからの姿を眺めておりました。そして、こう言いました。
「あなた様が、落ちてしまっては大変です。ですから妾が、あなた様に代わって、あの花々のいのちと、美しさとを寿ぎましょう。拙い舞ですが、花々も、きっと、わかってくれましょう。」
そう言うと、かな様は、やにわに扇を開いて、花の下で舞を始めました。月の光をいっぱいに浴びて。腰を少しばかり落とし、優雅な摺り足で草を踏み、軽く土を蹴って方角を変えました。
右手の扇が太陽ならば、なにも持たぬ、ただ嫋やかな左手は月。面を被らず、きらきらとした瞳を花々に向け、そして、氷上に向けました。たしかに、まだどこか拙い舞でした。しかし、その姿、その優雅さは、氷上にはまるで天竺の天女が舞うさまのように思えました。
ひとりきり舞い終わると、扇を閉じ、かな様は氷上のもとへゆっくりと歩いて来ました。そして、まるで師匠の講評を待つ弟子のように、はにかんだ笑いを浮かべました。
氷上は、少しだけ手を伸ばして、かな様の手をとり、そのまま、自分の懐の中にかな様を迎え入れました。その暖かな身体を抱き、芳しい髪の匂いを嗅ぎ、小さな、かたちのよい額に手を触れました。
「花には、手が届きませんでした。」
彼は言いました。
「しかし、いま、あなたは、私の腕の中にある。放しはしません。放しは、しませんよ。」
そのまま二人は、堂の中の暗がりへ身を消して行ったのでございます。