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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第六章  月下の舞 (3)

その二日後、満月の夜のことです。市街をやや外れ、山口を北から見下ろす鴻ノ峰(こうのみね)の麓に、市女笠(いちめがさ)姿のかな様が、杖をついて現れました。


この前の町娘のような地味な服装とは異なり、かな様は、練貫地(ねりぬきじ)の白い小袖の上に、緋色の紋綸子(もんりんず)打掛(うちかけ)を羽織っておりました。打掛には、全面に絢爛たる扇面文様が散らしてあり、もとは安芸国きっての名家の子女が、風雅な舞を習うための万全の用意を成した格好となります。


手に松明(たいまつ)を持って案内してきた下男を控えさせると、そこで待っていた氷上と左座が、かな様を案内して峰のうちへと歩んで行きました。急な坂道にはしっかりと丸木による段が組まれており、歩くのに不自由はございませんでした。左座の掲げる松明のもと、氷上に手を引かれ、かな様は杖をつきながら段々をしっかりと歩んで行きました。


ほどなく一行は、峰の中腹を平らに削平(さくへい)した場所に着きました。そこに、古びたお社があり、傍らに、能舞台を思わせるような、小ぶりなお堂がございました。周囲を囲うていた板を外し、(たいら)かな舞台で、外に向かって思うがままに舞えるようになっております。


「こちらが、我らが(ひそ)やかなる鍛錬の場でございます。」

氷上が、左座を見、そして笑いながら言いました。

「表向き、義長公の従者、警衛の武者に過ぎない我らが、まさか大内館の能舞台を使うわけにも参りません。ひと目を避け、思うがままに舞うのには、ここが最上でござる。」




かな様は、杖をついたまま、南の方角いっぱいに広がる夜空を見上げました。


夜空にはいっぱいの星が()かれ、中天に(まる)い満月がはめ込まれています。月は、(またた)くこともなく、ゆらゆらと揺れることもなく、ただそこに()って、かつんと、すべてのものを跳ね返しているように見えます。わずかに、うっすらと(かすみ)のようなものが前に懸かることもありますが、月の放つ白銀(しろがね)色の光は、そんなものには全く頓着せず、ただまっすぐ飛んで、この峰の中腹にわずかに(ひら)けた平地へと届きます。


お堂も、平地の芝生も、樹々の葉の一枚一枚でさえ、その光をいっぱいに受けて輝いておりました。


見上げるかな様の瞳の中に、それらのものがすべて一緒になって映り込み、涙にじんわりと滲みながら、細かな光の粉となって、きらきらと(こぼ)れ落ちるように見えました。




氷上が、しばらく我を忘れて、そのさまに見とれてしまったのも、当然のことといえましょう。彼は、やや呆れたように脇から彼のほうを見やる左座の目線に気づき、はっとして、かな様に声をかけました。


「さて。かな様。」


かな様は、優しい顔で氷上のほうを見ます。

「能舞の鍛錬でござるが、本日のところは、ただ、()ていただきとうござる。」


左座が、堂上の氷上へ、影のようにつと近づき、黙って、扇を前に指しました。この日は彼も、白足袋に大袴を履いております。いつも離さぬ刀は、堂の脇の草地に、鞘のまま突き立ててありました。


「これから、あなた様が学び、舞うことになる舞でござる。」

氷上は言いました。

「視られよ。そして学ばれよ。しっかりと、あなた様の心で感じるのでござる。」

言い終わると、やにわに左座と差し向かいになり、扇を開きました。




(うたい)囃子(はやし)も、ありません。


ただ、幽玄の境地をたゆたう男二人ばかりの、息遣いと、足を()る音、そのずしりとした重みを受けて堂の板敷きがかすかに(きし)む音とが、聞こえるばかりです。


かな様は、月の光に(うる)んだままの瞳で、その舞を見ておりました。


(たお)やかで、ひたすらに軽やか。まるで母親の腹から出てきたばかりの幼子のように罪なき、無垢な美しさが氷上の舞です。


対して、左座のそれは、ひたすらに重みがあり、武士らしい減りと張りを、そのまま残したもの。無骨ですが、緩と急のついた、絶えず移ろうはかなさのようなものが漂う舞です。


柔と剛。曲と直。まるで違うふたつの動きが、交わり、離れ、また交錯して、音なき虚空に、無音の(がく)を奏でているように思えました。天空から届く白銀(しろがね)色の光が、堂の床に跳ね返りながらふたりの男子(おのこ)の動きを照らし、彼らの背負う(ごう)と運命とを物語っているようにも見えます。


かな様は、ただ視ました。その動きではなく、舞ですらなく、ただそこに語られる物語を。奏でられる音なき調べを。胸がつぶれるような、せつなく辛い思いが満ち溢れ、虚空で男たちの舞と混じり合いました。いっぱいの光に潤んだ瞳から、つと、ひとすじの涙がこぼれ落ちたことを、堂上で舞う男ふたりは気づいたでしょうか。




夜空に大きく、かつんと輝く円やかな月が、強い光を放ちながら、舞う者と視る者とを、隔てなく照らしておりました。

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