第六章 月下の舞 (2)
しかし、ここで、横に居た無口な左座が、むっつりとした口調で氷上に助け舟を出しました。
「拙者、さきに氷上どのが申された通り、幼き頃より身一つで戦場を彷徨い、何度も死にそうな目に遭い申した。横で死んでいったものは、親兄弟をはじめ無数。のちに自らが斬り殺した数も・・・いや、さようなこと、もはや覚えてなどおり申さぬ。」
固く黒ずんだ膚と、よく見ればいくつか残る傷痕。そしてその奥から鈍色に輝く光を放つ眼とが、左座の送ってきたこれまでの凄まじい日々を物語っております。彼は、ゆっくりと言葉を継ぎました。
「されど拙者、これまで斬った相手に祟られたことなど、一度としてござらぬ。闇の中からなにか恨み言のようなものを囁かれたことも。あの世からは、誰も、戻っては参らぬ。夢幻能とは、むしろ、現世に残された者共が、あの世に去った霊を寿ぎ、なるべく穏やかに送るためのものかと存ずる。」
左座の意外な言葉に、やや驚いたかな様は、
「すると、采女の霊とは、現し世の者共が、自らの都合で勝手に紡ぎ出した幻じゃと、おぬしはそう申すのか?」
「拙者は、そうと信ずる。」
左座は、言い切って、また黙りました。
「軽く能楽の中身をお教えするだけのつもりが、思わず、深い話になり申したな。」
氷上が、にこやかに話を戻しました。
「ともかくも、我らの舞う舞は、そうした、夢幻の世界を描くものでござる。男子、女子の区別はござらぬが、多くは武家の行事として行われるものであるが故、女子が舞う機会は、ほとんど無いのでござる。よって、教えよと申されましても、はじめての事ゆえ、どのようにお教えしたら良いか、わかりかねるのでござる。」
「ならば、妾を女子と思うな。ただの弟子と思うて、厳しく躾けよ。」
かな様は、こだわっておりました。
氷上が舞台で見せた、あの艶やかで軽やかな身体の動き。その現す嫋やかさや華やかさとに、すっかり魅せられていたのです。
「装束は、そちらが着古しておるもので良い。袴は、もともとそちらが履くものは大きい故、妾が履いても良かろう。あとは面を被れば・・・あのときの、そちと一緒じゃ。とりあえず、なりだけならな。」
かな様に多少の武芸の嗜みはあれども、その動きは、あくまで減りと張りを交互に繰り出し、相手をいかに正しく傷めつけるか、ただそれだけを希求するもの。
それにひきかえ、磨き上げた宝物のような技をかずかず懐に隠し、次々と思うがままに繰り出し、ひらひらと、妙なる調べに乗って夢幻の心地をたゆたうような、あの氷上の舞。美しさという贈物を、その場に居る皆の掌にひとりひとりそっと手渡して廻るような、あの優しげで幽かな身のこなし。
氷上の舞というよりも、世界を寿ぎ、やわらかく包み込む、舞という営為そのものに、かな様はすっかり心を奪われていたのです。かな様がここに来たのも、身代わりの件で氷上を問い詰めるためというより、実ははじめから、このことを駆け引きするためだったのかもしれません。
その心のうちは、わたくしには、よくわかりません。
しかし、いったん心のうちに灯った炎を、そのまま吹き消してしまうかな様ではございません。氷上が、たとえどのように巧みに弁舌を弄して逃げようとしても、詮なき、無駄な行いと申すべきでございます。
よって、お話を、端折らせていただきましょう。ほどなく氷上は、かな様に舞をお教えすることを、無理やり承知させられてしまっておりました。