第五章 うたかたの夢 (1)
氷上は蔵の中に消えてしまい、あとに残されたかな様は、後ろに下女のおくまを従え、その、むっつりと刀を抱える男と差し向かいになりました。
すらりと高い氷上に較べれば背はやや低く、少しばかりずんぐりとしております。真黒く日焼けした膚には全く艶がなく、まるで誰かが白粉の代わりに煤でも擦り込んだかのようにくすんでおります。その膚のところどころに刀疵や痘痕の痕が残り、顎にはまばらに無精髭が生えています。鬢は乱れ、茶色く枯れたような髪の先が微かに風にそよいでいます。
なによりも特徴的なのは、その切れ長の細い眼で、まるで、顔相の奥底から鋭い光を放ち、こちらの心を見透かしてしまうかのような怖さがありました。さりとて、威圧するような素振りは見せません。むしろ態度はどっしりと落ち着き、千年でも万年でもそこにそのまま居そうな、沈着な巌と称してもいいような佇まいです。
歳の頃はおそらく三十歳過ぎでしょうか。しかし、ほぼ同い年くらいのはずの氷上太郎に比べると、その佇まいのせいか、五歳も十歳も上に見えます。かな様の隣に控える下女のおくまは四十過ぎ。安芸よりずっと付き従ってきた、かな様にとってはまるで母のような存在でしたが、今はなにか、この男よりは若く見えます。
男は、表情を全く変えません。いや、そもそも、表情ないし感情というものが、ございません。かな様は、この男が、人ではなくやはり物言わぬ木石の類なのではないかと感じました。
勝手のわからぬ女子二人と、感情のない木石。
どちらから、何を言うでもなく。さりとて、にらみ合いになるような刺々しさもなく。互いに無関心ではないのですが、特に親しく会話を交わすほどの理由もない。そのような不思議な間が空きました。
やがて、一度消えた氷上の涼やかな顔が蔵の入口からふたたび現れ、かな様を丁重に手招きしました。
「お入りくだされ。」
かな様は、手にした竹杖をふたたびおくまに預け、ここで待つように申し付け、男の脇を通って中に入りました。男はいったん半身を横に傾け、かな様の通り良いようにしてから、後に続いて自分も中に入りました。
しかしこの木石は、自分が中に入る前、立ったままのおくまのほうへ目をやり、刀の鞘でもって脇に転がっていた古い道具箱を指し、そこに腰掛けているよう無言で示したのを、かな様は横目で見ました。
先程は、いかにも稽古中であったと思しき大袴を履いていた氷上は、それを取り、身分ある姫を迎えるにふさわしい装いに着替えておりました。武家の者らしい直垂姿です。両胸には美麗な大内菱の大紋が染め抜かれ、それを着た彼の姿は、どこか誇らしく見えました。
そして氷上は、柔らかく微笑みながら、かたわらに居る木石を紹介しました。
「左座宗右衛門と申します。」
男は、あらたまってかな様に一礼しましたが、自分では口を開きませんでした。その代わり、氷上が話しました。
「この者も、わたくし同様、晴英さま・・・今は義長公ですが、晴英さまに附いて海を渡り来った者でございます。もとは肥後の生まれですが、幼少のみぎりより大友家に寄食し、以後、要人の警衛などに当たっております。生来の口重なれど、弓馬刀槍のすべてに優れ、また舞もそこそこに巧み。」
舞も、というところで、意外な面持ちでかな様が左座を見ました。
「意外で、ござろう。なに、舞については、拙者が長年、仕込み申した。」
本人の代わりに、笑いながら氷上が答えました。
「お気づきかどうか、あのときの采女でも、舞台に立っております。連の脇に居た旅僧の役ですが。」
氷上は、悪戯っぽく笑って、左座に目を遣りました。
「急に、欠員が、出申してな。」
ここで、はじめて左座が口を開きました。見た目のとおり、ゆっくりと落ち着いた、低い、喉の奥に重石がしてあるような声です。相変わらず、愛想はありませんが、口を開けば、かな様に警戒心や敵意を持っているわけではないことがわかります。
「ああ。」
左座は、かな様の目線に気づきました。
「これでござるな。ご無礼を。ひとたび舞台を降りれば、警衛こそ拙者の役であるため、刀は常にこうして腕に抱いておるのです。」
笑わずに、言いました。
しかしそのあと、刀は腰に提げて、二度と手に触れようとしませんでした。




