第四章 仮面の下 (2)
かな様は、茣蓙の上に座っているとはいえ安芸の武家の娘。平民どもとは違い遠慮せず、すでに面を上げて居りました。そして、義長公のやや面長な顔を見上げておりました。しかし、かな様の心にのこっていたのは、あの涼やかな顔。面の下にあった、義長公とは似ても似つかぬ別の顔であったのです。
帰り道でも、ずっとそのことを考え続けました。あの御方。義長公の振りをして、采女を演じたあの男。どことなく謎めいて、そして、たおやかな舞を舞う、あの男。かな様は、このときはまだ、あの男が氷上太郎なる義長公の従者だとは知りません。
しかし、そこはやはり内藤家の力。下女や用人に命じてあちこち探らせたところ、すぐに役者の名と、現在の居場所とが聞こえてまいりました。
私が思いまするに、かな様を、かな様たらしめているものは、勇でも美でも胆でもなく、ひとえにその、果断でございます。まるで戦場の武将のような。その結果がどのような災いを齎そうとも、どれだけの人の命を断つことになろうとも。まるで逡巡せず、心の赴くまま、天の命ずるまま、ただそれを断固として行うのです。
人によっては、それを蛮勇と評すでしょう。思慮の足らぬ、浅はかな女子の行いと謗る輩もおりましょう。だいたいが、直情径行の性質で知られた姫です。多くの殿方がそのお振舞いに眉をひそめ、声を潜めてその短慮を陰で嗤うのですが、しかしながら、そのどちらが男らしく、そのどちらが女子のような卑怯未練な行いと申せましょうや。
陶様ご謀叛の際にも、それにかかわる多くの殿方が、ひめやかに事を企て、ひそやかにそれを行いました。とてもとても、とても長い時間をかけて。その結果が、あの惨烈を極めた、大内館での虐殺です。大寧寺での鏖殺です。そして・・・いたましい幼子二人の、時を置いての嬲り殺しです。
いったい、殿方の申される、思慮とは?周到さとは?それはただ、もとは微かな憎しみを拗らせ、増幅させ、さらに拡げて人を巻き込み、どこまでも連鎖させていくだけのものなのではないでしょうか。人の世にはびこる憎悪の総量をどこまでも殖やし、やがて彼我の自制を決壊させて、際限のない殺人という悪鬼羅刹の行いへと導く。殿方らしい思慮とは、もしかすると、ただそういうことなのではないでしょうか。
この山口で、現し世のさまざまなことどもに接していると、わたくしは、つい、そういう思いに囚われてしまうのです。あまりにも悲惨な、あまりにも陰湿なことばかり見聞きし、みずからも惨めで汚れたこのぬかるみに沈潜していると、かな様の果断、かな様の裏表のないお考えや行いが、はるか高嶺に美しく咲く、薄紫の美しい藤の花にも見えてしまうのです。ただ、それはあまりに高く、あまりに遠すぎ、わたくしが手を伸ばして触れられるものなどではないのです。