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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第四章  仮面の下 (1)

目の前を、ひらり、ひらりと舞う見事な仕手(シテ)は、武家の棟梁ではない。采女の面の下にある顔は、おそらく、皆がそうと思い込んでいる大内義長公のそれではない。かな様はいちはやく感じておりました。しかし、舞台の前に座っていた誰ひとり、そのことに気づいた者は、おりませんでした。


能楽は進み、猿沢の池の畔で皆の前から采女の霊が消え失せ、前場が終わります。庶民の扮装をした会釈間(あしらいあい)が登場し、入れ替わりに采女はしずしずと退場していきます。橋懸の檜の板を、微かにきこきこと軋ませながら、女らしく、少し俯向き気味に。すでに舞台では、(あい)が喋り始めております。観衆の目がそちらに注がれているあいだも、かな様は、目の前を通る采女を、真下からまっすぐ注視しておりました。すると、思いもよらぬことが起きたのです。


あまりにも軽やかに、しかし烈しく舞いすぎた所為(せい)でしょうか、采女の面紐の結び目が緩み、俯向き加減であったことも災いして、それが遂にはらりと解けてしまったのです。とつぜん、深井(ふかい)の面が額から離れ、裏表逆さにぺらり、と落ちていこうとした間際、采女の鬘扇(かずらおうぎ) がはっしとそれを押さえ、そのまま、さらに俯いて退がっていきました。


自然な動作でした。ある意味では優美でさえある所作で、まるで舞台を下がる動きのなかにあらかじめ溶け込んでいるかのよう。おそらくその場にいた誰も、役者の面が落ちかけていたことにすら気が付かなかったに相違ありません。


しかし、かな様は違いました。さきほどから仕手の動きにどことなく不自然さを感じ、舞台ではなく、目の前の橋懸をずっと注視していたのです。面紐が解けるところも、面が額を離れるところも、そのすべてをごく近くから眺めておりました。そして、瞬く間のことですが、采女の、その深井の面の下にある顔を、ほんの、ちらとだけ見届けることができたのです。




そのまま後場が催され、采女の霊が穏やかに回向し、「采女」の能は終りとなりました。役者がみな退場し、しばらくして、楽屋から烏帽子に直垂(ひたたれ)姿の義長公があらわれ、場にいた皆に一揖(いちゆう)されます。両脇には、弓を抱え帯刀した武者が控えておりました。場内にいた者みな満足げで、老若男女、貴賤も問わず、まずは舞台上のお館様に向かって平伏し、お言葉を待ちます。


義長公は、飾らぬ声音で、平伏する皆の背に声を掛けました。

「皆々、ここまでよう参った。大儀である。今宵の舞は、たいへん楽しかった。皆とともに舞い、楽を奏し、泰平を祝えること、祝着至極(しゅうちゃくしごく)。」

そうとだけ申されて舞台を去り、散会となりました。


面を上げることのできたごく一部の高貴な方々は別として、皆々平伏し、背中で聞いておるだけではありましたが、そのお言葉は、簡潔かつ明瞭であるがゆえに貴賤を問わず人々の心に沁み渡ったのでございます。武家の棟梁としての頼もしさ、人柄の暖かさ、そして身分を問わず、ここ山口に集い、商い、住まう人々を思いやる心。そうしたことどもが伝わる、なんとも心地の良い声音でありました。


山口の諸人の心を一にし、新政権の船出を寿(ことほ)ぐ催しとして、この能楽の宵は、まずは大きな成功を収めたと申せましょう。

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