終章 高嶺の花
もうじき、夜が明けます。
この庵を辞し、これから私は、少し上がったところにある、かつての高嶺城の三の郭へと参ります。そこは、まさに、かつて氷上とあなた様が満月の夜毎に逢い、舞い、愛し合ったあの場所でございます。
もうすでに、あのとき在ったあのお堂は御座いませぬ。しかし、あの崖はそのまま残っておりまする。傍らには、あの深く怖ろしい千尋の谷も。それらは、もちろん、城の防御に役立つものとしてそのまま残されたのでございます。あたりの樹々は切払われ、代わりに大量の矢竹が植わり、櫓台や土塁など設けられ、あたりの風景は、当時と全く変わってしまっております。
しかし、あの崖の上のほうに、いったんは切払われてしまったはずのあの蒼い花々が、いつの間にかまたそっと生えて、咲いておるのでございます。
かつてほどの勢いで崖を埋め咲き誇っているわけではございません。しかし、あの蒼さ、美しさは、あのときのままで御座います。このこと、知っているのは私だけでございました。いまはじめて、あなた様にだけそっとお教えするのでございます。
今宵の月は、欠けておりまする。しかも、あたりはもう既にほのかに明るくなって参っております。しかし、私には関係ございませぬ。ただ眼をつぶれば、あの満月の晩の様子が、いまでもありありと浮かんで参ります。そこには、氷上が居ります。まだうら若き、あなた様がおられます。
氷上は、柔らかく笑っております。どこか寂しげですが、私の卑劣な裏切りなど意にも介さず、ただ優しく笑っております。彼は、私の終生の友です。お互い寄る辺なき孤児のような境遇から、ともに兄弟のようにして生きて参った友です。
そして、あなた様。月の光を映してきらきらと輝くその瞳。私が・・・何も言えないこの情けなき男が、生涯をかけて憧れ、愛し、見守り続けた女性。
最後にこの私。三名が集い、扇を開いて腰を落とし、摺足で交互に近づき、遠のき、たおやかに腕をくねらせて、ただ舞うのです。言葉など交わさず、黙って、微笑みながら、ただ舞うのです。いつまでも、いつまでも舞い続けるのです。
そして見上げれば、崖の上に、あの蒼い花が咲いております。
手を伸ばしても届かない、高みに咲いた蒼い花。儚げで小さく、手に取れば散って行ってしまいそうな美しき花々。皆々その美しさに憧れ、そしてそれを手にしたいと願って、墜ちて行ってしまいました。
ひとりその花に手を伸ばそうとせず、触れようともしなかったこの臆病な男が、いまやっとのこと、その花を取らんとわが手を伸ばしまする。きっと、墜ちていってしまうでありましょうが・・・あの千尋の谷へと、まっさかさまに転げて行ってしまうでしょうが。
しかしそれでもなお、あの花は咲いておりまする。
誰も触れられない高みに。
誰も登れぬ高嶺のかなたに。
かな様。
私の話は、これで終わりでございます。あなた様とも、これでお別れでございます。本当に長い間、ご一緒して参りました。いろいろな事がございましたが、今となっては、本当に一瞬のことのようでございます。
あなたは、美しい天女のような方でした。またときに意地悪く私の胸を苛む、禍のような方でした。かたときも忘れることのできぬ、呪いのような方でした。そして、悪鬼のような、戦の女神でした。私のつまらぬ、このかげろうのような一生は、ただあなた様と共に在り、あなた様に寄り添うことによってのみ、はじめて地面にそのはかない影を落とすことができるのでございます。
あなたは、私のすべてでした。
いま、やっと、本当にやっと、私は自分の思いのたけをすべて、あなたに言い尽くすことができました。現世での生の最後に、このような機会を持てたことを、私は感謝いたします。これから地獄への長い道行が始まりますが、私は、かつて左座宗右衛門と名乗っていた男は、胸を張り、笑みを浮かべて歩いてゆくことができます。なぜなら、私は、もう独りではございませんから。
振り返れば、高みが見えます。
あの高嶺のへりの、急な崖が見えます。
そして、そこには。
誰の手も届かない、遥かな遥かな高みには。
ただそっと、あなたが咲いているのです。
高嶺の花が、優しく、美しく、私を見下ろし、ただ咲いているのでございます。
<了>