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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第三章  海の向こうから来た男 (4)

幕が揚がり役者たちが出て参りました。(ワキ)(ツレ) の三名です。彼らは、(ひのき)の板敷が重みで(かす)かに(きし)むあの心地良い音を立てながら、しずしずとかな様の目の前の橋懸を通り、すでに位置についた地謡(じうたい)の者どもに加わりました。やがて一声を促す囃子(はやし)がトン、と鳴り、能がはじまりました。




演目は、もちろんあなた様もよくご存じの、「采女(うねめ)」でございます。


南都を訪れた旅の僧が、春日大社の森で女に出会い、彼女に連れられて猿沢の池へと至ります。すると女は、帝のご寵愛(ちょうあい)が薄れたことを悲しみ、激情のあまりこの池に身を投げた、とある采女の物語を語り、そして自分こそがその采女の霊だと告げて消え失せるという筋です。


采女とは、その昔、帝のお側近くに仕えた女房どものこと。その多くは、朝廷の討伐を怖れた辺地の豪族なぞが差し出した娘で、いわば人質のこと。いや、いまにおける武家の人質ならば、まだ日頃は丁重に遇され、敬意をもって接せられもしましょうが、このときの采女たちの大半は、ただ差し出されただけのもの。ものに対して、敬意を払う必要はございません。かわいそうな采女たちは、当時の宮中で、端女(はしため)同然の扱いを受けていたに相違ありませぬ。その恥辱と遣り切れない思いは、いかばかりであったでありましょうか。


たまに、見目の良い者には、帝の手が付くこともございました。しかしそれは、故郷を恋い慕う采女たちにとって、二重の屈辱であったことでしょう。もちろん、寵愛されることで、当座の暮らし向きは大いに良くなるに違いありませぬ。されど、采女同士の嫉視や蔑視、憎しみなどが身にまとわりつくことになったでありましょうし、頼みとする帝のご寵愛が、やがて他へと移った際には、それこそ池に身を投げたくもなるような、恐ろしいその後の運命が襲いかかってくるに違いないのです。


悲惨な境遇の中で、あと少し、あと少しばかりの安逸(あんいつ)と安らぎを求めたがゆえに。目のまえに、あとすこし手を伸ばせば届く小さな美しい花を見たがゆえに。


花に手を伸ばし、それを手に(つか)み、そして、もろともに奈落の底に落ちていってしまった、そんな采女たちも多くいたに相違ありません。




この能楽においては、采女の霊がそこまで細かく現世での恨みつらみを語るわけではございません。むしろ、すべて()しきものごとは浄化され、帝は過ちに気づいて懺悔の歌を詠み、旅の僧らは読経して彼女の菩提(ぼだい)を弔い、当の采女は穏やかなる回向(えこう)の旅へと出ていきます。


しかし、これまでここ山口で起こったさまざまなことを想うとき、幽玄なる神域で交わされるこの霊と人とのやり取りを舞台で再現することは、血と涙と裏切りに満ちた現世を浄化していくための、ひとつの許しの儀式にも思えるのです。


義長公御自ら択ばれたこの演目は、まこと時宜(じぎ)にかなった、神妙なものであったと言わざるを得ません。


この、采女に扮する仕手が登場するのは、脇や連らがひとしきり御蓋(みかさ) の山と、春日の神域の緑、そこに咲き誇る花々を誉め讃えたあとのこと。面を被り、女装束に身を包んだ仕手が現れ、かな様の目の前でしずしずと橋懸を渡り、舞台に加わります。そして、宵の口であるにも関わらず、森の静謐と、樹々から漏れ落ちる月光の美しさを愛で、神々を讃えながら、せっせと苗木を植え始めるのです。

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