第二十九章 采女 (2)
このとき、市川邸の裏口から、そっと闇へと消えた人影がございました。邸内のただならぬ雰囲気に異変を察した左座宗右衛門が、経緯を知り、父の率いる討伐隊が進発する前に、山口の町の数丁先に別宅を構える元教殿へ急を知らせに奔ったのでございます。
元教様は、左座にとって、我が子も同じの大切な方でございます。かつての盟友、氷上太郎の子であり、日頃、敬愛してやまぬ市川局の子であり・・・そして長年、自分が躾け、武道も勉学も、舞さえも仕込んだ、朗らかで頭の良い弟子でございます。
左座はこのとき、死を決しておりました。元教様のいない世になど、自分の居場所は無いも同然。この変事を、おそらく邸内奥にて臥せりがちの局は、事前に知らされることはないだろう。なので、これを止める術も持たぬであろう。
すべてが終わり、我が子が父親に殺されたことを知らされた局は、いったい、正気を保つことができようか。そしてそのあと、すべてを差配した経好殿の心もまた毀れて・・・。
この市川家の幸せは、左座にとってのすべて。自らがついに得ることのできなかった幸せと安らぎを、この家族のそばに居ると、左座は少しばかりでも、感じ取ることができたのです。いや、正確には、本当の幸せは、あの忌わしき戦の前までにしか無かったのでございましたが・・・。
一人くらい。儂一人くらい、元教様にお味方仕ろうぞ。
お味方して、二人して父上の率いる討伐隊と一戦交えようぞ。
闇の中を走りながら、左座は考えました。かつて高嶺城の防衛を差配したのは、市川局と、われら二人じゃ。われら二人が組めば、なに、寄手の十や二十は斬ってくれるわい。そしてそのあとは・・・そうじゃ、派手に暴れて、最後は舞でも舞って、優雅に、二人刺し違えて死んで行こうぞ。
せめて、左座ひとりは元教様にお味方したと、市川局にお知らせせねば。元教様は、ひとり孤独のうちに冥界へ去ったのではない・・・さすれば、これから絶望の闇に閉ざされるであろう局の心に、ほんの微かな、一明を灯せるかもしれぬ・・・あの御方の、毅き清らかな心だけは、毀さずに残すことができるかもしれぬ。
やがて、元教様の邸宅の前まで来ると、門は厳重に閉められ、灯はすべて消され、さながら籠城の準備のようでございます。門前で訪うと、小窓が開いて、元教様の顔が現れました。はや廿二歳の元教様ですが、左座を見て嬉しそうに笑う目元などは、あの幼きみぎりの満月丸様そのものでございます。
左座は落涙し、たまらずそのまま門前でがっくりと膝をつきました。そして、これから父の軍勢がここに攻め寄せ来たる顛末を物語ろうとしましたが、元教様は、すでにそのことを知っておりました。
「福原殿の手の者がの。」
元教様は、にこやかに語りました。
「先ほど、知らせに参った。謀叛が露見したと。福原殿はこれから、父のもとへと向かう。そして追手を差し向け、儂を討ちに来る、と。」
「なに!」
左座は驚きました。すなわち福原殿は、これから討つ者と討たれる者、両者にその急を知らせたことになるのです。元教様は続けました。
「つまり、逃げよ、と福原殿は仰せなのじゃ。親子で殺し合う様を、見たくはないのであろう。お優しい御方じゃ、ありがたいことじゃ・・・しかし、儂は、逃げぬことにした。」
「なぜ!何故でござる?謀叛などどうせ虚事、逃げればよろしい。そのほうが、父上のためにもなり、また母上のためにもなり申す。豊後でも肥後でも、どこか知れぬ異国の地でも。この左座が、どこまでもお供仕る!」
「だめじゃ・・・だめじゃ。」
元教様は、なおも笑いながら、左座の申し出を拒絶しました。
「何故ならの・・・謀叛は、真実のことだからだ。」
「なんと!」
「あの乱のあとの数年、わが心は、地獄のようであった。昔の幸せな市川家は、もう二度と帰っては来ない。父は、変わった。母も変わった。そしてこの儂は・・・敵国と通謀して、密やかに裏切の準備なぞしておる。」
「嘘じゃ!嘘じゃ!若は、さようなこと成すおひとではない!」
「ざざ・・・世の中にはの、お主の知らぬこともあるのじゃ。もはや、抗えぬ。もはや、逃げられぬ。父に討たれるなら、それも佳し。いや・・・そうじゃ!」
元教様は、なにか良いことを思いついたような嬉しげな顔で、固く閉じた門扉の閂を外し、邸内に左座を招き入れました。




