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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第二十八章  悪名 (3)

市川局が断固として指揮した徹底的な抗戦により、山口は十日間その命脈を保ち、その稼いだ貴重な時間のあいだ、海を越えて四万の全軍を敵前撤収させるという離れ業を演じた毛利軍でしたが、当然、その払った犠牲も大きなものでございました。


すでに九州の山野で数千の将兵が大友軍の抵抗の前に(むな)しく戦死し、撤収に当たっては、激しく追い(すが)る追手によって殿軍(しんがり)がしたたか叩かれ、さらに数千の死骸を路傍に残しました。しかしそれでも彼らは戦い、無事に海峡を渡って主力軍をもと来た場所へと返し、毛利は、滅亡の危機をぎりぎりの(きわ)で回避したのでございます。




その功績の第一は、もちろん、高嶺の孤軍を率いて勇戦敢闘した、市川局。そして息子の元教様です。誰もが認める事実でございましたが、しかし、局のその後の評判は、毛利家中において、はなはだ(かんば)しからぬものがございました。


まず、攻め寄せて来た大内輝弘が、かつて大友の間諜として山口に潜入していたことがあり、若き頃の局が(ねんご)ろな仲になってこれを支援していたという昔の出来事が、密かに問題視されました。すなわちこのときの縁で、実は今回も、山口への上陸を局が手引きしたのではないか?


あり得る筈もない、(ひど)い言いがかりでございます。


もちろん、局のために弁ずる者が多数おり、この疑惑はすぐと晴れたのでございますが、この不都合な事実が、口さがない世上の噂にならぬよう、毛利氏はその後数年に渡って、ひどく民の声に気を使わねばならなくなりました。




次に、高嶺籠城の最中、捕らえた女の細作の頸を刎ね、局みずからが敵に向かって投げつけたこと。これは、一面においては、勇猛果敢な「聞かん気の姫」なる風評と共に、主として山口の町雀や田舎の民草のあいだで勇ましく、面白おかしく語り継がれましたが、反面、その冷酷な仕打ちが、局の美しさに対する嫉妬とも相俟(あいま)って、さまざま()しざまに噂される要因ともなりました。


この点で、特に口を極めて局の所業を非難したのが、籠城の際には力強いお味方として支えてくれたはずの、あの竺雲恵心和尚でございました。


和尚は、いかな暗殺を企てし細作といえども天晴な戦士なりと、おたきの行いを称揚し、それを冷酷に殺害し遺体に(はずかし)めを加えた局の行いは、必ずや仏罰当たる悪鬼の所業と説きました。またおたきが極めて幸薄き生まれの女子であったことが豊後から伝わって参るや、その頸を斬り遠くへ投げ捨てた局に対する舌鋒(ぜっぽう)は、ますます厳しいものとなって参りました。


もちろん、和尚も公然と人前で市川局を責めるようなことは致しません。しかし、たとえ内々の陰口であっても、問わず語りに耳には入って参るもの。あのときの行いについて、その後一切語らず、なんの弁明も試みなかった局は、しかしひとり密やかにお心に裂けた傷口を、ふたたびじくじくと傷めておられたのではありますまいか。




そして何より、大内輝弘によって意表を()かれ、滅亡の瀬戸際にまで追い詰められた毛利元就公が、その衝撃のあまり、乱のわずか半年後に身罷(みまか)られてしまったことが、局に対する悪評の大きな原因となりました。乱の鎮定にむしろ大いに貢献したはずの局が、こうまで悪しざまに言われる理由を、私はいまだに判じかねるのでございますが、人の心とは、およそ奇妙な、理の通らぬもの。


おそらく、偉大な創業者の死に動揺し、家中に蔓延(まんえん)した先行きへの不安が、なんらかのはけ口を求めて家中を錯綜(さくそう)した結果、局をめがけて殺到してしまったのだろうと思われるのです。


誠に、理不尽な話でございます。局の偉功は、毛利家中においてその後何年も顧みられることなく、誰もが触れてはならぬ類の話題となり、そのままひっそりと、忘れ去られていくことになってしまいました。


もちろん、毛利輝元公、吉川小早川らの一門衆、そして家中において一の重みを成す重臣の福原貞俊殿らは、局の比類なき功績を公平に(たた)え、これに感状を持って報いましたが、それが実現したのも、乱から数えて数年後のことでございました。

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