第三章 海の向こうから来た男 (3)
実は、義長公がここ山口にまで連れてきていた氷上太郎なる従者は、この能楽における舞を義長公に日々指南する、いわば公の師匠にあたる人物でございました。噂では、かつて大内家にも連なる由緒ある名家の出ながら、諸事情あって零落し、いまは能楽に関わる諸事全般を人に教えることで身を立てておるとのこと。
廿歳をわずかに越えたばかりの、まだ若々しい義長公にくらべると、おそらく歳は十ほど上。舞台における腰と身体の切れは、まさにみずみずしい若人のそれと全く変わりませぬが、大人らしい落ち着きと、苦労人らしい物腰の低さ、柔らかさを持っております。早くに妻を亡くしたあと、一家を構えずただひたすらに芸事にのみ日々精進するさまは、豊後におけるその筋の数寄者たちのあいだで、かなりの畏敬の念を持たれていた由にございます。
義長公は、渡海後そろそろ二年が経とうとしていたこの時分、まずまず落ち着いた山口の政情に鑑み、日頃彼を支える多くの豪族や諸侯らに対し、彼なりの謝意をかたちにして示したかったのだと思います。彼らの多くは、かつて主君を弑逆した反逆者。しかし、いまこうして幕府の認可を得、彼らの汚名が公式に雪がれようとしています。そしてこの自分は、彼らの自己犠牲によっていまこうして山口の主として君臨することができている。そのことを、自ら舞うことによって謝し、彼らの心の奥底にいまだ巣食うであろう叛逆への後ろめたさを癒やし、さらに政権の一体感を演出したかったのだろうと心得ます。
まことに、英邁な義長公に相応しい、人のこころの機微をついた、素晴らしき配慮であったと申せましょう。
やがて、二年前の叛乱で戦火に焼かれ、黒焦げとなった大内館の再建が成り、そのなかに、絢爛たる能舞台がしつらえられました。義長公のご意向で、周囲には新生大内政権の要人や有徳人、商人、町衆や、はては名もなき庶民に至るまで、希望あらば入れるだけ入れることと相成りました。そしてそのなかに、舞台の脇正面、橋懸のたもとに敷かれた茣蓙の上へ膝を組んで座り、目を輝かせて勾欄を見上げるかな様が混じっていたので御座います。
かな様はじめ宮庄家の一党はこのとき、内藤家の領する離れの飛び地に住まっておりました。内藤家からの給与扶持はそのままでしたが、広壮な内藤邸に居た頃よりはみなみな慎み深く節約を心掛けるようになっており、このときも、かな様と、連れのおくまという下女は、いずれもごく普通の目立たぬ格好をしております。かつては、櫻色の小袖に萌黄の打掛なぞを好んでおられたかな様でしたが、山吹色の粗末な小袖に元結で束ねた髪を背に垂らしているだけの今のお姿は、その眼の覚めるようなお顔の美しさは別として、そこらの町娘と、なんら変わるところはございません。