第二十八章 悪名 (1)
世にいう「大内輝弘の乱」は、発生から十四日後に鎮定されました。
高嶺城は、山口を奪回し、城外にわずかに残る攻囲軍を蹴散らした吉川勢の大軍にすぐさま解放され、十日ぶりに櫓門の閂が外されました。門扉の前を埋め、酸鼻なる臭を放っていた屍骸は両脇にとり片付けられ、それを啄みに降りてきていた烏どもが、一斉に空へ向け飛び立ちました。
城に籠もるわずか九十数名の生き残りは、全軍の歓呼の中、陽の光をいっぱいに浴びて、よろよろと城外へとまろび出たのでございます。
この史上もっとも過酷な条件下での籠城戦を率いた市川局は、実は、その期間中ほとんど戦闘の埒外に居りました。籠城初日、おたきに斬られた際の刀傷が化膿して高熱を発し、その後はずっと臥せり、戦の指揮は息子の市川元教様と、実質的にはその下で、左座宗右衛門が執ったのでございます。すなわち、市川局の戦いとは、その功績とは、あの、ものすごい籠城初日での活躍に尽きるのでございます。
しかし、その働きはまさに阿修羅の如く。
天から降された雷神の如く。
ひとり陣頭に立って薙刀を振るい、全軍を叱咤して敵に向かわせ、降を勧めに来た敵将をその胆力で威圧して馬ごと足を竦ませ、遂には逃げ帰らせました。
これにより、はっきりと両軍の勢いに差がつき、その後、大内輝弘の大軍は、一度としてその持てる力を発揮することなく、ただばらばらの、思い付きのような気の抜けた寄せばかりを行い、あたら貴重な人命と時間とを空費してしまったのでございます。
もちろん、能く戦ったのは、配下の皆々も同じ。元教様は主に昼間の警戒と櫓門付近の早合撃ちの指揮を執り、日に日に肝が座りまた大いに腕も上げ、最後の頃には敵勢誰一人として城門付近に寄せて来なくなってしまいました。なぜなら、寄せ来れば、必ず死ぬのです。死ぬとわかって、あの腰の砕けた不甲斐ない大将のために突っ込んで参る馬鹿は居りませぬ。
左座は、夜襲の指揮を行いました。刀槍の術に優れた武士、早合の装填に慣れた銃列の士、そして射撃に長けた根来衆とを組み合わせ、それぞれ五名から成る数隊の斬込隊を編成しました。彼らは、闇に紛れて敵陣のあちこちに忍んで近づき、種子島を撃ちかけすぐに退き、また別のところで撃ちかけすぐと姿を消して・・・という風に、常に敵を眠らせず、夜ごと撹乱に努めました。
籠城初日には、おっかなびっくりで弓に弦を張り、伐ってきたばかりの矢竹の先を尖らせていた農民兵たちも、数日の戦闘を重ねるうち、すぐに熟練した弓兵になりました。のちには彼らも志願して左座の夜襲に加わり、追いかけてくる敵兵に矢竹を喰らわせては、夜闇の中を自在に躍動するようになりました。
彼らの勇戦敢闘はみな、籠城初日、市川局が示した不退転の決意と、底知れぬ胆力とに触発されたものでございました。局の、阿修羅のような残酷さと、天女のような美しさに、誰もが極限まで戦意を掻き立てられ、彼らは一人一人が人間の範疇を越えるような勇敢さと巧妙さを発揮して、その後も大軍を翻弄し続けたのです。
しかし、あのものすごい一日、籠城初日の夕暮れ頃には、市川局の顔面は蒼白となり、幾筋もの汗が流れ、薙刀を床についてやっとその場に立っているありさまとなりました。やがて、局は激しく咳込み、ふらつき、遂にはしゃがみこんで櫓の床上に激しく嘔吐し、そのまま意識を喪ってしまったのです。
元教様と左座は、血と、自らの吐瀉物とに塗れたこの女神の身体を抱き抱え、城門の内側に誰かが急造した小屋掛のなかに運び入れ、数名の女どもに介抱させました。そのさまはまるで、ひとたび舞い降りた戦の女神が、ありとあらゆる精気を吸い尽くし、また局の肉体を離れどこかに去って行ってしまったあとのようでございました。その後、局は二度と立ち上がることができず、この戦への関わりは、ただそれきりのものとなってしまったのでございます。
恵心和尚は、戦の止んだ合間になど、城壁から梯子を下ろさせ、配下の若い僧を連れて新たに加わった遺骸の前で経を読み頭を垂れて、その魂の成仏を祈りました。和尚は、籠城中もそのあとも一切、局とは関わろうとしませんでした。おたきの頸を断ち、敵へと投げつけたその悪鬼のような振舞に、心の底からの怖れと、嫌悪を抱いたからでございます。




