第二十七章 儚き夢のおわり (2)
おたきは、叫びながら、脳裏をくるくると幼き日の想い出が次々と現れては消えて行くのを感じました。緑濃く、水の豊かな筑前の山野。村の童同士の追いかけっこ、鯰獲り、川遊び。囲炉裏を囲んだ家族の夕べ。村は一年中暖かく、たまには野に出て、星がいっぱいの夜空の下で寝ることもできました。しかし、幸せだった日々は長くは続かず、村には戦の影が寄せ、村は毀され、人は散り散りとなり、自分は幼い姉弟や病身の母を連れて曠野へ、そして・・・
そうしていると、ほんのしばしの間だけですが、おたきは、眼前の恐怖を忘れることができるのです。母や弟や、顔を覚えてもおらぬ父や・・・懐かしい顔が、みな笑いながら、次々と通り過ぎて行きました。
任をしくじり囚われた細作は、必ず死なねばならない。だが自分は、死ぬのではなく、みんなの元に行くのだ。あの笑顔の数々に、また会いに行くのだ。
おたきは、やっとのこと、観念いたしました。
なにも見えず、なにも聞こえなくなりました。痛みすら、なくなりました。やがて、後ろの頚筋につと、堅い物が触れたような気がいたしました。そしてそのまま、おたきの意識は、静かに闇の彼方へ落ちていったのでございます。
そのとき観念したのは、左座も同じでございました。彼は、市川局の不退転の決意を知り、懐剣でおたきの頸を落とそうとしていた局を制し、退がらせてから、自分の刀を抜き、これを一閃させて、瞬時におたきの頸を斬ったのでした。
おたきは、痛みを感じる暇すら無かった筈でございます。この哀れな細作の末路に手向けた、せめてもの武士の情けであったと申せましょう。
市川局は、まったく表情を変えず、おたきの束髪を持って立っておりました。胴から離れたおたきの頭が、その先に下がり、左右にぶらぶらと揺れておりました。おたきは眼を閉じ、なにも起こらなかったかのように安らかな死に顔をしておりましたが、その頸からは黒い血がぼたぼたと滴り、糸を引いて櫓の床に落ちておりました。
周囲から、悲鳴とも嗚咽とも知れぬ声があがり、人々は、怖れと畏敬のこもった眼差しで局を見上げました。その横で左座は息を弾ませ、口を開け、ぜいぜいと肩を波打たせております。恵心和尚は、眉根をひそめ、ひとしきり局を睨んだあと、細い瞼の奥にそっと感情の光を隠しました。そして、両手を合わせておたきのために祈りました。
眼下では、よりいっそう大きな声で、大内輝弘が喚いておりました。
「なにをする!なにをする!左座止めろ!かな、してはならぬ!」
そして、その願い叶わずおたきの頸が打たれたと気づくと、
「ああ、ああ・・・」
と咽びながら、ただ馬上に揺られておりました。いつの間にか手槍をとり落としていた彼は、やがて手綱からも手を放し、顔を覆って泣き始めました。傍らに居た武弘が馬を寄せて父の肩を抱き、一生懸命になにごとかを言い聞かせております。
もちろん、輝弘が敵前でこれほどまでに取り乱したのは、顔馴染みのおたきが討たれたからではありません。敵城に潜入し囚われた細作を待つ運命は、ただ死あるのみ。それは、西国でも畿内でも東国でも、常に変わらぬ戦の掟。それどころか、長く繋がれ、鉄鞭で打たれ水で責めたてられるような地獄の苦しみを伴う拷問に遭わなかっただけ、おたきは幸せな最期を遂げたとすら言えるのでございます。
輝弘が顔を覆い泣き咽んだのは、市川局が、冷静に、そして冷酷にこの惨い断を下したからでございます。局は、一度たりとも逡巡せず左座に処刑を命じ、従わぬと見るや、あろうことか、自ら懐剣を取り出してこの哀れな女子の頸を切断しようとすらしたのでした。
それは、彼が長年、海の向こうで想い出し、毎夜のように夢にも見た、あの美しいかな様の姿ではございませんでした。瞳を輝かせ、月の光のなかで優雅に、たおやかに舞った、あの麗しいかな姫の姿では、ございませんでした。
氷上が心のなかへ密かに持ち続けていた、小さな宝物が、いま、音を立てて毀れてしまったのでございます。氷上の恋は終わり、氷上が胸に懐き続けた愛は、戦場の泥と硝煙と、そしておたきの血とに塗れ、破れてしまったのです。