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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第二十六章  天使と悪魔 (4)

「あああ・・・止めよ、止めよ!」

眼下からは輝弘が、局のやろうとしていることに気づいて、大きな、大きな声をはり上げております。


「その女子は、確かに儂の馴染みじゃ。豊後の吉岡邸にて、つい先ごろまで見かけおった女子じゃ。儂が知らぬあいだに、山口に派され、なにか役割を果たしておったのであろう。じゃが、仔細は、知らぬ!本当に、知らぬ!」


「それならば、この者がどうなろうと、そちの知ったことではなかろう!そこで見ておれ!不埒な曲者の末路は、こうじゃ!」


そう言うと局は、手にしていた薙刀を脇に控えた侍女へと放り、懐中から短剣を取り出しました。いまここで、逡巡する左座に代わり、みずからの手でおたきの頸を()き落とそうとしているのです。




左座も、輝弘も、元教様も、恵心和尚も・・・その場に居合わせた者、全員が、背筋を凍らせ、立ち竦みました。


みな、局が狂したと思いました。輝弘すなわち、氷上太郎と局との過去の経緯を知る少数の者は、あの聞かん気の宮庄の姫が、またも激情にかられ、氷上と自分以外の女子との関係を嫉妬し、(にわか)な狂気を生じてこの暴挙に及ぼうとしているのではないかと疑いました。


特に哀れなのは、大内輝弘でした。彼は、動揺し再び暴れ出した馬の背に激しく揺さぶられ、必死でそれにしがみつきながら、なおも「止めよ、止めよ!」と連呼しました。再会を夢にまで見たかな様。あの美しく、汚れなきかな様が、冷たく自分を拒否したばかりでなく、自分も見知った若い女子の頸を、いま、みずから返り血を浴びながら掻き落とそうとしているのです。


彼は、ただ、かつて失った素晴らしきものをわが手に取り戻すため、海を渡って参っただけなのでございます。大軍を率い、誰をも傷つけず、無血のうちに目的を達し、ただあの幸せを再び掴みたかっただけなのでございます。


それなのに、それなのに。


すでに耐え難きほど多くの血を見て、この上さらに斯様な怖ろしい光景を目近にするのは、到底耐えられないことでございました。輝弘は、我を忘れて、なおも叫び続けました。


左座も、はっきりと動揺しておりました。日頃は、人らしい情をどこかに置き忘れたかのように冷静な彼が、こうまで我を忘れ、ただ茫然と木偶(でく)のように立ち尽くしていたことは、これまでに無いことでございました。


左座は見ておりました。眼の前にひろがる、おぞましい、信じられないほど怖ろしい光景を。


かつて氷上とかな様と、そして自分の三人とで、いっぱいの満月の光を浴びながら、世を寿(ことほ)ぎ人の命を(ことほ)いだまさにこの場所で。美しい瞳をきらきらと輝かせながら、自分と氷上の舞を食い入るように見つめていたかな様が・・・そのかな様が、いま、髪を振り乱し、胸元に血を(にじ)ませ、突き刺すような眼をして別の女の束髪を掴み、その頸を斬り落とそうとしているのです。


夢なら()めよ、夢なら醒めよ。

この悪き夢よ、もう、いい加減に醒めよ!


左座は、願いました。心の底から願いました。しかしそれは、夢でも幻でもございません。(うつつ)のことでございました。さらにそれどころか、次に、およそこの世に、あってはならないことが起こったのでございます。




頭を思い切り引っ張られ、その痛みで意識を取り戻したおたきが、ふっと眼を開いたのでした。そして、しばしの間だけ廻りを眺め、隣に刃物を持った鬼のような形相をしている局が立っているのを認め、己の置かれている状況を、やっと理解したようでありました。


おたきは、恐怖で、眼をいっぱいに見開きました。そして、(たす)けを求めるがごとく周囲を見廻し、左座と眼が合ったのです。二人は、しばし、見つめ合うような格好になりました。


いっぱいに見開かれた、おたきの眼。これから来たる運命に(ふる)え、(おび)え、かすかに揺れるその瞳。その眼を、その瞳を、左座は一生忘れることができませんでした。

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